われわれは大往生を望むわけだが、その大きな理由のひとつは、死体の醜さへの畏れである。公衆便所で自殺体を見つけたら、しばらくは悪夢に悩まされるだろう。他人の死はたいして悲しくないのが本音であるが、死体への恐怖はガチである。だからわれわれは生者とあまり変わらない安らかな死を願う。白眼を剥いてこときれている自分はイメージしたくなく、まるで眠っているような表情で死にたいのだ。自然死であっても、独居老人だったら腐乱死体になることはあるだろう。最近増え続ける独身者はもちろん、核家族化で一人暮らしの老人もたくさんいる。死によって肉体が腐り、蝿が飛び回ってるのに、なかなか発見されないこともあるだろう。どうせ火葬場で焼かれて骨になることを考えると、近親者に死を看取ってもらい、すぐに死体を綺麗にして貰うことに特別な価値があるかわからないが、やはり醜い死体にはなりたくないのである。死体に綺麗も汚いもあるだろうか、と思うのだが、たぶんあるのだろう。綺麗な死体と腐乱死体はやはり違うのである。死んだら生ゴミだから、どっちでも同じな気がするが、おそらく、生ゴミであるという事実を認識したくないのである。綺麗な死体は生ゴミではない、ということらしい。死んで生ゴミになるのではなく、永遠の眠りであると考えたいのだ。そういうファンタジーを信じたいのである。水死で膨張して土左衛門になったりすると、永遠の眠りというイメージが湧かない。「カラマーゾフの兄弟」において、主人公のアレクセイ(修道僧)が崇拝するゾシマ長老が死に瀕する場面がある。ひとびとが聖者と崇めていた高僧であるから、死によって何かしら神々しい奇跡が慈雨のように降り注ぐと思われていたのだが、死んでからすぐに凄まじい腐臭を発したのである。この腐臭の広がりに、多くの人が鼻をつまみ幻滅したのである。聖者は精神世界と繋がる存在であり、八重咲きの桜の花弁のように惜しげもなく神秘を開き示すべきなのに、その瘴気を放つ遺骸は光り輝くこともなく、きわめて俗的で唯物論的な死に方をしたのである。奇跡に無縁の聖者は痴れ者と同じである。聖者は天意を受けてこの現世に産み落とされたはずであり、その肉体が死するからこそ、精神世界への道標を示すべきなのに、悪臭を放つ生ゴミになってしまったのだ。われわれはこの俗世間がすべてだとは思いたくないのである。俗世間を超越する世界があると、どこかで信じている。カリスマ性がある人間とは、俗世間を越える道筋を提示してくれる人物のことである。思考が世俗の域を出ない人間はカリスマ性がないのだ。宗教家の場合、超越的な世界と交信しているというオーラが必要である。ゾシマ長老は腐った死体を晒してしまった。肉の塊、もしくはタンパク質の固まりとして生涯を終えてしまったのである。「カラマーゾフの兄弟」の続編では、還俗したアレクセイの生き方が描かれるはずだった。修道僧が還俗するのだから、ゾシマ長老の死に方も含めて、唯物論と宗教の問題がテーマになっただろうと思われるが、ドストエフスキーの死亡により、それは執筆されずじまいに終わった。







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