明治天皇は自分の身長を測ることを生涯拒絶していた。
崩御して、ようやく明治天皇の身長を測ることになったのである。

福田和也「昭和天皇 第一部 日露戦争と乃木希典の死」には次のように書いてある。
その間、藤波言忠は、なきがらに寄り添い、お上の身長を測っていた。 先帝は、身長や体重を測られることを嫌い、洋服の寸法すら取らせなかったのである。藤波が、最後に測っておこう、と発意した心持ちには推し量りきれないものがある。五尺五寸四分(約一六七センチ)だった、と藤波は記録している。


明治天皇が身長を測るのを拒絶し、写真も嫌がっており、御真影すら肖像画で済ませたのだから、替え玉説を唱える人がいるわけである。
三浦芳堅という人物が「田中光顕に聞いた話」として著作に書いたのである。
田中光顕本人が言ったのなら信じるが、これは完全に三浦某の作り話である。
歴史において闇に葬られた事実はたくさんあるだろうが、孝明天皇と一緒に息子の明治天皇(睦仁親王)を暗殺し、別の誰かとすり替えたとなると、かなり多くの人が知っているはずだから、まったく話が出ないということはない。
幕末に公武合体派だった孝明天皇が暗殺された疑惑についてはたいていの幕末史が触れているが、三浦某のはほとんど目にしない。

明治天皇(睦仁親王)を生んだのは孝明天皇の側室の中山慶子である。
孝明天皇の死後に明治天皇(睦仁親王)を新政府が抱き込むことが出来たのは、中山慶子の父親である中山忠能の力が大きい。
中山忠能は長州寄りの言動のため、孝明天皇から不興を買っていたが、孝明天皇崩御で復権したのである。
中山忠能は、討幕の密勅や王政復古の大号令に中心人物として関わっている。
明治天皇(睦仁親王)は五歳まで中山邸で暮らしていた。
その後に宮中に戻ってからも、中山慶子が養育係となっている。
孝明天皇死亡時に、明治天皇は満14歳である。
血が繋がっている中山親子に説得されて新政府側に唯々諾々と従っていたと考えるのが自然である。
ちなみに中山忠能は明治21年まで生きている。
中山慶子は明治40年まで生きている。
また大正天皇は生まれてから6歳まで中山邸で過ごしている。
その後に宮中に戻ってからも、中山慶子が育てている。
仮に明治天皇がすり替えられているなら、中山慶子が大正天皇を育てているのがとても不自然である。
そもそも中山家の先祖を辿れば藤原氏であるから、お得意の外戚政治を行っただけだろう。
中山親子が明治天皇をコントロール出来る立場であるのに、すり替える必要などまったくないのである。

明治天皇は肩幅が広く、いかにも闘士型という体型である。
闘士型はすごい立派で強そうに見えるのだが、あまり知性を感じない体型であり、頭部が大きめであることが多く、よくよく見るとあまり背も高くない。
明治天皇の身長167センチというのは当時としては長身の部類だが、明治天皇の写真(肖像画)から身長180くらいの印象を持っていた人が多いと思われる。
開かれた皇室の時代ではないし、明治天皇は帝王というイメージにフィットすることを望んだに違いない。
新政府の面子だと、西郷隆盛は180あるし、大久保利通も175はあり、木戸孝允も170以上とされる。
明治天皇はあまり自分が長身という認識がなかったかもしれない。
身長を測るのを生涯拒んだのも、長身というイメージにしておきたかったのだろう。







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