精神と肉体を区別し、意思は精神のものであるという考えがあった。
これはあまり正しくないだろう。
意思は身体的欲求である。
飯が食いたい、喉が渇いた、女とやりたい、という欲求が意思なのである。
そういう欲求が自動思考として浮かんでくる。
あなたという肉の塊の中で、女とやりたいという欲求が浮上すると、それを意思と呼ぶのである。

それでは人間は、身体的欲求に従って生きているだけなのだろうか。
主体的な決定の余地があるとすれば、行動の結果を考えることである。
ここに理性が入る余地がある。
たとえば、辺鄙な田舎道ですごい美少女が歩いているのを見つけたとする。
あと30分で世界が終わるとしたら、強姦しようと考えるかもしれない。
だが、世界は終わらないし、臭い飯を食うことになる未来を考えたら、何もしないのが普通だ。

夜中にお腹が空いて、コンビニに弁当を買いに行こうと思ったとする。
これは空腹によって促されているわけである。
空腹である状態を解消する手段として、コンビニで弁当というのを思いついたのだ。
とはいえ、その思いつきを実行するとは限らない。
生活苦で汲々としていたら、将来困ることを考えて空腹に耐えるかもしれない。
肥満であるなら、糖尿病を懸念し、空腹に耐えることにするかもしれない。
将来的な金銭苦や糖尿病での苦しみを考え、空腹と戦うわけである。
これは現在の快楽と、未来の不快を秤に掛けているのである。

現在やりたいことをやるだけなら、自由意思はない。
身体感覚と意思が接着しているだけである。
現在やりたいと思ったことを、未来のことを考えて断念するところに理性を働かせる余地がある。
人生設計や生活設計があるからこそ意思がある。
何の縛りもなければ現在の快楽に従うだけだろう。
どれだけケーキを食べても糖尿にも虫歯にもならないというのなら、際限なく食べるに決まっている。
われわれが肉体的欲求の完全な奴隷とならないのは、未来のことを計画的に考える必要があるからである。

歯を磨くのは面倒くさい。
でも、磨かないと虫歯になって、後で苦しむわけである。
だから面倒くさくても、歯を磨く。
これは快適な未来のために行動しているわけである。
勉強も面倒くさい。
しかし人生設計のために勉強するのである。
眠気が迫ってくれば眠りたいわけだが、何らかの義務を果たすために我慢することは多々あるわけだ。

こう考えると、われわれが一回性の人生を生きているから(その人生のプランがあるから)人間的な意思があるとも言える。
詰んだら肉体を交換してリスタート出来るとなれば、ボロボロになっても構わないのだから、現在の快楽のために放蕩するのみである。
過去のツケを未来で払う仕組みだからこそ、思考や理性があるのだ。
現実という壁の前で、生活設計とにらめっこしながら我慢したり、面倒でも重い腰を上げたりするのである。







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