村重杏奈(15歳)はロシア人ハーフである。おそらく今がスラヴ人少女の魅力のピークであると思われる。週刊文春に載っていたジャニーズとの写真は、後から(事務所側との手打ちで)撮られたものだと思うから、おそらく深夜に抜け出して会った時は、相当にえぐい写真が撮られたに違いない。15歳が乳繰りあっている写真を雑誌に載せられないという配慮だろう。恋愛に目覚めた近代以降において、イケメンに自分を捧げるのが少女の最大の夢なのである。美しさがピークの自分の透き通るような素肌を薔薇色に染めて、その裸体を惜しげもなくジャニーズに貢ぎたいのである。歌舞伎町のホストに貢ぐために借金漬けになるのと、精神構造はあまり変わらない。若さを失いイケメンから相手にされなくなると、産業廃棄物を引き取ってくれる男を探すわけである。扶養されたいという願望が湧き上がってくるのだ。産廃処理に最適な不細工男性公務員を何とかして引っかけようとする。たいていの若い女が非処女であるのに対して、20代男性の半数くらいが童貞だという話もある。江戸時代あたりは下半身が緩いとはいえ、イケメンが若い女を総取りするわけではなかった。伐採や採取を分け合う入会地のように、女は分配されていた。昔は隣近所みんな顔見知りであるから、牧歌的な譲り合いも可能だったのだ。明治になってから、結婚するまで処女というのが徹底された。大正時代の女性は平均20歳で結婚していた。敗戦後は性の解放が進み、見合い結婚はかなり廃れた。現代の日本では一部のイケメンが若い女を独占している。入会地(分け合う発想)が否定され、エンクロージャー(囲い込み)に移行しているのである。若い女を独占し片っ端から食いまくるという行為は昔の農村なら顰蹙を買い、鍬を持った凶徒に囲まれ、轢死体のような肉片に化するだろうが、現代の都会では自由なのである。入会地が強者の乱獲により崩壊するプロセスである。コモンズの悲劇と評することも出来るが、イケメンが武力で女を拉致しているわけではない。自分の人生で一番可愛い瞬間をイケメンに捧げたいという少女の近代的な願望が根底にある。少女が自らの熱情でイケメンの元に走り寄り、衣擦れの音とともに艶めく裸体をさらし、人生で一番美しい自分を貢ぐのである。合コンは若い女性であれば誰でも出席することが出来る。男性は何かしらモテ要素が必要であり、自分に自信がないキモヲタに参加資格はない。合コンは(入会地と対極の)エンクロージャーだと言えるのだが、少女がイケメンに身を捧げたくて仕方がないのだから仕方がない。性欲というより、自我の欲求なのである。自らより格上だと感じる男性に身を捧げるのが近代的な少女の欲求なのである。10代で結婚するのが当たり前の時代だと、こういう自我の欲求はさほど強くなかったはずだ。ある程度晩婚化して、恋愛と結婚が切り離されてこそ、恋愛という概念が浮上してくる。昔の人も恋愛はしただろうが、美しさのピークの時に結婚しない現代だからこそ、恋愛という感情が強度をもって前景化する。80年代のバブルにせよ、90年代の女子高生ブームにせよ、少女たちは若さを蕩尽するように遊び尽くしても必ず結婚で尻ぬぐい出来るという確信があったのである。未来の結婚相手への蔑み。容姿が劣化したら、どっかの間抜けな男に扶養させればいい。イケメンに貢ぎすぎた少女時代の負債を贖うかのように、老化した自分を扶養してくれるアホな旦那を探すつもりだった。この構図は不況の長期化と晩婚化によって成り立たなくなっている。恋愛とは言いつつも、構造的にはハーレムであるが、一夫一婦制なのでひとりの女しか選ばれない。イケメンが結婚するとしても、その際にはまったく新規の若い処女を選ぶかもしれない。美しさを失い廃棄されたセカンドバージンが現代日本には大量に溢れており、その瘴気を放つ女たちの思惑が童貞の思惑と像を結ぶことはなく、すべての美が刈り尽くされた後半生の長患いだけが残る。恋愛が悪疫のように広まってから、われわれは繋がりのない社会を放浪し、無意味さを問う紀行文を綴り、地縁も血縁もない白茶けた空間を終の棲家とし、無縁仏として客死するしかないのである。15歳の村重杏奈となら誰でも結婚したいだろうが、ビヤ樽になったら引き取り手はいないと思われる。しかし最も美しい瞬間の自分をジャニーズに捧げたのだから、村重杏奈は近代的な恋愛少女として本懐を遂げたのである。







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