人間の五感が到達する範囲はとても狭い。自分の肉体が存在する座標から見える世界だけなのである。だが、この貧しさによりプライバシーが保たれている。千里眼が存在することは誰も望んでいまい。もちろん自分だけが千里眼を発揮できるのなら極めて便利だが、誰もが千里眼を使えるとなれば、すべてが筒抜けの世の中になるわけである。お互いの台所事情から痴話喧嘩まですべて知り尽くしているという状態では、個人や他者が存在するかも疑わしい。辺鄙な田舎でも公然の秘密に触れる時は声を潜める。

プライバシーとはなんぞやというと難しいのだが、「見せたくない」もしくは「見えない」もしくは「見たい」ところに人間存在の本質がある。そもそも人間は服を着る。そして裸体に性的興奮を感じるという仕組みである。もし人間の視覚が、離れたところでも自由に見られるのなら、ミニスカートは存在し得ない。肉体の頭部に付いている眼球からしか見えないというのが、(見えそうで見えないというのが)、ミニスカートの前提である。明らかに丸見えだったら意味がないわけである。水着を見ても得をした感じはしないが、下着が見えると得をした感じになるのは、下着を見せたくないという少女の羞恥が前提である。その羞恥により、下着を見ただけで性的な戦利品を獲た喜びが生じ、裸体を見たかのような興奮が得られるのである。そもそも裸体に神秘性があるのも、衣服に妨げられているからである。長年夢見た稀覯書を手に入れ、それを初めて紐解くように、異性の裸体は姿を現すことになっている。

人間のプライバシーも、暴かれるためにこそある、という言い方も出来る。五感の認識範囲が狭いから、われわれはその境界の外側に踏み出ないわけではなく、隠されているからこそ知りたいという好奇心が人間の本質であり、未知の領域があるのが人生の本質なのである。見たい人間と見せたくない人間が凌ぎを削るのが情報戦であり、これが世界の本質なのである。それはミニスカートと同じで、どちらに軍配が上がるわけでもない。個々人が羞恥という感情を持ち、多くの真相を墓場まで持って行こうとするからこそ、人間存在があるのである。ある程度開き示されているのが世界の本質でもあるから、完全にオープンになったり、完全に閉ざされても人間は存在し得ない。あなたが他人と知り合いになるとして「過去の経歴はプライバシーなのですべて秘密です」と言われても困るだろう。過去の経歴を含めて人間は存在しているのである。

人生をすべて公開した人間というのは、人類史でほとんどいないと思われる。「蒲団」を書いた田山花袋も、ハイカラな女学生に眷恋した塗炭の苦しみを作品として昇華したのであり、人生を一片残らずフルオープンにすることを試みたのではない。それに連なる「人間失格」や「仮面の告白」のような自然主義的な私小説も、羞恥との格闘であり、恥も外聞もなく何から何まで公開する試みではない。最後まで隠しておきたい事実は秘密の手文庫にしまわれて墓場まで持って行かれるのである。語りたくない生き恥こそが個人として存在する最後の核なのである。この塵芥のような矜持まで躊躇いなく公開するようであれば、自分の人生を完全に他人事として突き放したことになり、もはや自分という認識すらなくなるだろう。







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