かつてカント(1724年生まれ)が現象と物自体を対比し、物自体は不可知と定義したのは、形而上学の限界として正しい線を引いたのである。では物自体がわからないのかというと、そうでもあるまい。科学的に分析すればいいのである。人類は19世紀半ばまで細菌の存在すら知らなかった。カントは数学や物理は得意だったが、18世紀の人間なので、この当時の科学レベルだと、物自体はわからないと言うしかなかったのである。

哲学は理数系の人間が趣味としてやるのにふさわしい。専門化が進む社会で、複数のことは専門に出来ないが、片手間に有名な哲学書を読むだけで充分だろう。

ニーチェが数学を不得手にしていることは学生時代の成績から判明している。ニーチェは形而上学という豪奢な大伽藍を建設することはせず、人間の五感に現象する世界の事実性にこだわった。五感の体験はそれ自体が人間的リアリティーなのである。そして天才的な洞察力を発揮することで、偉大な作品を残したのである。哲学というよりは、フロイト心理学の先駆けであるように思える。フロイトはニーチェ思想の猿真似だと言われるのを恐れていたようだが、確かにニーチェに最も似ているのは(他のどの哲学者より)フロイトであるように思う。

その後のハイデガーは数学や物理に関心を持っていた形跡はあるが、実力のほどは不明である。少なくとも理数系の知識は「存在と時間」に反映されていない。「存在と時間」(1927年)は人間存在を世界や他者との関係の問題としてとらえた。人類が書いた最高の書物のひとつであり、文系脳で書かれた書物ではあるのだが、出版から100年近く経っても、その成果の発展が見られない。ハイデガー個人の天才的な洞察力によるものだから、跡継がいないのである。理数系の発見は応用可能であり、天才の理論を秀才が実用化していくのは普通だが、文系は天才頼みであり、凡人は応用すら出来ないという問題である。

カントは現象と物自体を対比させ、物自体は不可知としたが、これは今日なら、科学的にアプローチしうるだろう。われわれの認識とは、五感を通した体験である。そしてこの人間的な体験(経験)は、科学的な実験装置とは対極のものである。われわれの味覚は、その化学成分を検出しているのではなく、あくまでその成分に刺激され体験する器官なのである。人間の舌は成分分析の機械ではなく、アイスクリームを食べて甘いと感じる体験のためにあるのである。そもそも生物がいなかったら「甘い」という味覚の現象はないだろう。

もしくは、色が存在するのは不思議である。宇宙は勝手にビッグバンしたし、生物は勝手に生まれたわけである。しかし宇宙には色がある。生物が視覚で捉えなければ、何の意味もないものである。もちろん色とは言っても、電磁波の波長であるから、たまたま生物の視覚という感覚器官が「色」と解釈しているだけだが、それにしても宇宙はいかにも煌びやかであり神秘に満ちている。あたかも人間の3色型色覚のために光(可視光線)が準備されたかのようである。光がなければ、別の手段で周辺を把握していただろうが、それにしても、われわれの視覚にとって、ずいぶん宇宙は煌びやかに美しく見えるものである。美的観念は人間の中にあるものだろうが、まるでそれに合わせて宇宙が設計されたかのようである。

このあたりの問題も、物理や医学や生物学に専門的な知識があれば、もっと突き詰めて深く考えることが出来るはずである。文系哲学はすでに死んだ。理数系の人間が哲学をやれば、あらたな視座も生まれてくるだろう。古典的な形而上学は、科学的な実験装置がない時代に、数学者があれこれ想像で考えた学問だとも言える。それは乗り越えられるべきであり、現代のわれわれは、最新の実験装置で明らかになった成果を使いつつ、現象と物自体の関係を語るべきとも言える。文学部の人間がカントを読んでも18世紀の知識人の世界を追体験するだけで、何の意味もないが、理数系の人間がカントを読んだら、人間の五感が生み出す現象世界と、それを成り立たせる物質の仕組みについて、新たなる形而上学を構築出来るに違いない。







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