三島由紀夫は自伝小説である「仮面の告白」で同性愛の趣味を延々と書き綴っているが、公式に自分が同性愛者だと認めたことはない。女性と結婚して子どもを成しているので、同性愛は奇を衒ったネタだと見る人もいる。だが、若い頃の三島の状態を考えると、男色家だと断じて差し支えない。三島由紀夫は1925年生まれであり、20歳で終戦を迎えた。この当時だと、若い独身男子が戦争でずいぶん死んでいるので、わりと結婚しやすい状態だったはずだ。三島由紀夫は面長な顔で美男子というわけではないが、不細工というわけでもない。身長は実寸で163センチだが、1925年生まれの人間としては特に低いというわけでもない。その後に東大法学部を卒業し大蔵省に入った経歴を考えれば、20歳前後のかなりレベルの高い処女と見合い結婚するのは、充分に可能だったはずである。道重さゆみちゃんレベルの子と結婚することだってあり得ただろう。

三島は大蔵省を九ヶ月程度で退職し、「仮面の告白」を執筆し、時代の寵児となった。退職したのが昭和23年9月で、仮面の告白を書き始めたのがその年の11月である。退職後二ヶ月で書き始めたことからして、ある程度頭の中にはあったのだろう。大蔵省を退職した時点では、文壇のごく一部で評価されていたが、世間的にはまったくの無名作家であり、たいした作品も書いてないから、あまりにも無謀な挑戦であり、傍目から見たら人生を投げ捨てる愚行としか言いようがない。財務官僚として道重さゆみちゃんを妻にするような薔薇色の人生が可能であったのだから、そこから故意に転落し、自分はホモだと告白する小説を書き始めたのは、どう考えてもガチホモである。

三島由紀夫は肉体が貧弱であり、それが手伝って徴兵逃れも出来たが、肉体美に欠けることをやたらと気に病んでおり、知性は無意味だというニヒリズムを持っていた。三島由紀夫がボディビルを始めたのは、「金閣寺」の執筆開始と同時期であるので、筋肉を求める志向が最高傑作を生み出した側面もある。男性の肉体美に強烈な憧れを持ち、それを知性と対比させた。反知性主義とも言えるのだが、田舎に自生しているDQNのような天然の反知性主義ではなく、自らの知性の高さへの強烈な絶望である。どれだけ知性を高めても肉体美が手に入らないという絶望である。

どんなに馬鹿でもいいからイケメンに生まれたかったという素朴な感情は、この現代ではありふれている。ブサメンであれば、絶望しかない。だが、三島が生きていた当時だと、大蔵官僚になった時点で美人の幼妻をもらうことは容易だったから、その苦悩はあり得ない。ガチの男色家であったからこそ、肉体美が欠けている自分に絶望していたのであり、ハッテン場で東大とか大蔵官僚などという経歴がひとつも役に立たない現実を呪詛したのである。「金閣寺」では自暴自棄になって金閣に放火する青年の姿が描かれるのだが、大蔵官僚をやめてホモ小説を書くというのは、金閣に放火する以上の乱暴狼藉とも言える。

人間は胃袋と生殖器に促されて生きていると言ってもいいのだが、食べなければ死ぬという問題に比して、性器が不満足でも生命維持に問題はない。豪華絢爛なダイヤモンドの指輪が無くても人間は生きていけるし、避暑地に瀟洒な別荘を構えなくても、蒸し暑い内陸部で平然と生きていける。しかし、ダイヤモンドや豪華な別荘は無くてもいいが、美少女というのは、何が何でも手に入れたいものである。それがないなら、人生を破棄しても差し支えないくらいの重大問題である。

三島由紀夫が美を求めたのは道楽ではないのである。骨董や建築のようなおまけの美ではなく、性という根源的な美について世界の誰よりも絶望した人間なのである。

「金閣寺」で主人公は金閣に火を付けてから、最上階の究竟頂で死のうとする。その扉を必死で叩いたが、どうやっても開かないのである。

煙は私の背に迫っていた。
咳きながら、恵心の作と謂われる観音像や、天人奏楽の天井画を見た。
潮音洞にただよう煙は次第に充ちた。
私は更に階を上って、究竟頂の扉をあけようとした。
扉は開かない。
三階の鍵は堅固にかかっている。
私はその戸を叩いた。
叩く音は激しかったろうが、私の耳には入らない。
私は懸命にその戸を叩いた。
誰かが究竟頂の内部からあけてくれるような気がしたのである。
そのとき私が究竟頂に夢みていたのは、確かに自分の死場所であったが、煙はすでに迫っていたから、あたかも救済を求めるように、性急にその戸を叩いていたものと思われる。
戸の彼方にはわずか三間四尺七寸四方の小部屋しかないはずだった。
そして私はこのとき痛切に夢みたのだが、今はあらかた剥落してこそおれ、その小部屋には隈無く金箔が張り詰められている筈だった。
戸を叩きながら、私がどんなにその眩い小部屋に憧れていたかは、説明することができない。
ともかくそこに達すればいいのだ、と私は思っていた。
その金色の小部屋に達すればいい……。

主人公は自分が拒まれていると認識した時、韋駄天のように駆けて炎上する金閣から逃げる。そして金閣が見えないようなところまで来てから、煙草に火を付け「生きよう」とつぶやいて終わる。この生きる決意の空々しさは言うまでもない。究竟頂から拒まれた人間として生きていくのだから、暗黒の絶望を伴侶としながら生きることに他ならない。

三島がこのような作品を書けたのは、肉体の美しさという問題で、死病のような深い絶望に陥っていたからである。この世に生まれてきて、道重さゆみちゃんの素肌に触れることができずに死んでいく、その絶望である。前述したように、三島は大蔵官僚として見合い結婚して美人妻をもらうのは容易かったと思われるので、男色家であるのは間違いない。男性の肉体美に憧れつつ、その究極の美には遠いことで絶望の夜を繰り返したのである。こじらせる前に、なんとなく、それなりの恋人を見つけることができなかった人間の悲劇である。こじらせたからには、絶対的な美が手に入らない絶望と共に暗黒の思想を生きるしかないのである。







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