われわれが物の実在を信じていられるのは、他人もまったく同じ五感のシステムを持っているからである。五感によって体験している世界は、人類に普遍的なものである。仮に五感の仕組みがバラバラなら、各自が別の世界を体験していることになり、それはカオスと狂気であろう。人類の五感に普遍性があるからこそ、現実がひとつであると信じられるのだ。

文化や教育の差、もしくは、色覚障害のような障害の差はあるにせよ、人類の五感は同じである。砂糖が甘いのは人類共通の普遍的な経験なのである。物質そのものに味が付いているとは思えないので、砂糖が根源的に甘いわけではなく、あくまで味覚が解釈し、再生される現象の問題である。たとえば猫には砂糖に対する受容体がないから、砂糖を口に入れても甘さは感じないはずである。

われわれは人間の声が同じ風に聞こえるのを当然だと考えているが、同じ振動でも、別の生物の聴覚に別の音で聞こえているということは充分にあり得る。ひとりひとりの声の質は物理現象として固定的であっても、聴覚として経験(体験)される声は、生物種が違えばまったく別かもしれないのである。犬が人間の声を聞き分けるとしても、犬の中で再生(現象)されている声は、人間が体験する声とは別かもしれないわけである。

われわれの聴覚において、人の声と物音は、まったく別の性質を持った音として聞こえるわけである。雑踏の中であれこれ音がしていても、人の声だけは、人の声として再生(現象)される。聴覚は単に空気振動を検査しているのではなく、人の声と物音がそれぞれ個性を持ち、別々に再生される装置なのである。

五感が共通しているから、人類はすべて同じ嗜好を持っている。納豆のような一風変わったものだと好みが別れることもあるが、基本的に人間の好き嫌いは同じである。つまり快・不快が統一されているのだ。すごい美少女とすごいドブスのどちらかを選べるとしたら、ほとんどの人が美少女を選ぶだろう。好みの差はあるにしても、同じ映像を見て、同じ美的判断をしているわけである。

また嗅覚の問題について考えてみよう。高級レストランのテーブルに並んだ食事は見映えがよく、かぐわしく匂う。ナイフとフォークを手にする前から、いかにも鼻腔をくすぐるわけである。それに対して、廃棄される残飯は腐臭がしている。どちらを食べたいかと言えば、正解はひとつである。正解・不正解は決まっている。美少女とブスがいたら美少女が正解であるし、高級レストランの料理とポリバケツに捨てられた残飯を比べたら、高級料理の方が正解である。

五感は、現象世界を生み出すだけでなく、快・不快も支配しており、それがホモサピエンスの間では普遍性を持つから、美少女や、高級マンションや高級料理を巡り、奪い合いになるのも当然である。ドブスと安普請に住んで残飯を食べるとか、人間の五感ではおぞましい体験になるのだ。われわれはこの五感のルールから逃れることはできず、それが強く示唆する正解・不正解に束縛される。

人類の五感が普遍的であるからこそ、争いがあるのである。快・不快の判断が共通しているので、われわれは理想的な環境(正解)を求めて争う。人生に正解・不正解はある。ある岐路に立って、片方を選べば大企業の社長、もう片方を選べばホームレスというのであれば、ホームレスが不正解というのは決まっている。ホームレスとしてダンボールの家に住んで残飯で暮らすとなれば、五感にはとても醜悪な世界が現象してくるのである。五感は完全に現実を司っており、これに抗えるわけがない。







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