人間は時間的存在である。
連続性のある時間の中で存在しており、瞬間瞬間の欲に身を任せると破綻する仕組みになっている。
毎朝起きるたびに別の人物になっているなら、人生設計とか生活設計はあり得ない。
時間の連続性がなければ、瞬間の快・不快だけでいいので、悩む必要はあるまい。
連続性のある時間の中で、肉体の交換も出来ず、別人になることも出来ないからこそ、この半端に長い人生において、いろいろ頭を悩ませるのである。
過去と未来があるから、考える必要性があるのだ。
人間はいつも時計を見ながら行動しているのである。
あらかじめある程度決まっているスケジュールに従っているのであり、瞬間瞬間の思いつきで行動しているわけではない。
「その日暮らし」が終わった時に文明が誕生したのである。
街の時計塔は無意味なオブジェではなく、時間の共有の象徴として鐘を鳴らすのである。

人間が世界内存在であるのは、自分の肉体の心配をしなければならないからである。
透明な認識者として世界を眺めるのではなく、一人の生活者として自らの肉体のメンテナンスを行い、胃袋や性器の欲求に悩まされながら、暮らしを成り立たせる必要がある。
時間を意識しながら、起床し、登校したり、出社したり、帰宅したり、就寝したりする。
ゴミは決まった曜日に出さないといけないし、自治体によっては分別が必要だ。
生活のために、あれこれ考えないといけないのである。
われわれ人間が透明な認識者であるとしたら、ゴミを何曜日に捨てるとか、どうでもいいことだろうが、肉体を持って生活しているからには、曜日の確認は必須となるのである。

また人生設計という点では、自分の年齢の意識も必須である。
中学校とは、第二次成長期の少年少女を収容する感化院であるから、30歳になって中学に入学とか、そういうのはあり得ない。
何らかの理由で義務教育を終えてない大人は夜間中学に行くわけである。
13歳と30歳が「同じ学年」では教育の都合が悪いのである。
同い年の少年少女の密室性がクラスとしての特徴なのである。
同じ年齢でグループ分けされるのが絶対に素晴らしいとも思えないが、それが人類の普遍的なルールでもある。
未開な社会でも成人年齢は決まっている。

同じ学年として切り分けされて、同じ時代を共通体験する。
否が応でも世代に縛られ、その世代特有の感覚を身につけさせられる。
われわれにとって世界とは、自分が存在している時代の世界である。
肉体は時間通りに成長し老いて、その長患いが終わると死体として霊廟に横臥するのである。
その年齢に応じた世界に出会うので、だいたい型どおりなのである。
何らこの世界の真相を知ることの無いまま、読みさしの本を閉じるしかない。
一日という円環、一年という円環、人間の命という円環から逃れることは出来ない。







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