https://twitter.com/hazuma/status/494021921701253120
netuser.jpg



ネットユーザーの醜さと、現実の醜い人間を混同した言説が流行っている。
人間の思考というのは、本当に深く考えた末の結論というよりは、どこかで聞いた意見を頭に思い浮かべるだけである。
出来合いの意見を表象する行為を思考と呼んでいるのである。
ネットユーザーが醜いというのも、その手の「どこかで聞いた意見」であり、それを思い浮かべているだけなのである。
この意見だけ聞いてると、現実の人間はさぞかし美しいのだろうと思えてくる。

エゴサーチ中毒者はネットの隅から隅まで検索し、自分への言及を探しているわけである。
いわば盗聴器をあちこちに仕掛けているのと同じである。
ネットサービスは検索エンジンのクロールを許しているのだから、盗聴器と同一には捉えられないが、現実で盗聴したならば、他人の悪口だらけで聴くに耐えないであろうし、現実の方が清浄であるとは言えまい。
たとえば現実のいじめやパワハラを誰でも見られるとしたら、それこそネットの悪口とは桁が違う陰惨さであろうし、人間不信に陥って病むくらいの問題である。

ネットなら正体不明の悪口で済むが、現実だと、その性格の悪さを露骨に現した攻撃となる。
現実の嫌な奴はネットの比ではない。
われわれが他人の悪口で不愉快になるのは、その人物の底なしの性格の悪さを感じるからである。
お人好しの人間が無理して悪口を言ったところで意味がないので、徹底した性格の悪さを普段から貫いていることが重要なのである。
お人好しだと馬鹿にされるというのを本能的にわかっているので、ある種の合理的な選択として、他人を完全に舐めきった人物が出来上がる。
だから、悪口を字面で判断するのは間違いであり、その人物が(現実的な人間関係の中で)どれだけ他人を舐めている悪辣なオーラがあるか、が問題なのである。
完全に舐められている底なし沼のような状態に不安や怒りを感じるのである。
現実の嫌な人間が悪口を延々と言い続けることは少ないし、むしろ無言で他人を見下しているふてぶてしい態度が中心であり、悪口にしても、怒鳴り散らすことの方に重点が置かれるだろう。

東浩紀はネットユーザーの醜さについては語れるが、現実の人間の醜さについて語ることが出来ない。
人間性の本質について考えることがない人間である。
東浩紀が「動物化するポストモダン」で二次創作の切り貼りを「データベース消費」として礼賛したのは、人間の根深い業を哲学するよりは、上っ面のデータと戯れることを望んだからである。
「存在論的、郵便的」でハイデガーの名前を何百回出しても、それはフランス現代思想からの孫引きと言うべき扱いである。
人間という業悪について呻吟した様子は窺えない。
ネットでは延々とエゴサーチをし、床板を剥がすような真似を毎日やっているのに、現実の醜さについては見なかったことにするタイプだ。







スポンサードリンク

最近の記事
月別アーカイブ
カテゴリー
リンク
スポンサードリンク
RSSフィード
プロフィール

ukdata

Author:ukdata
FC2ブログへようこそ!

katja1945uk-jp■yahoo.co.jp http://twitter.com/ukrss
あわせて読みたい
あわせて読みたいブログパーツ
アクセスランキング