2014.08.18

認識と体験

われわれは森羅万象から疎外されている。
肉体に付属している眼球と鼻と耳と舌と手で世界を理解している。
これは極めて個人的な世界に他ならない。
その五感で把握しているもの以外は、他者からの伝聞で補っているだけである。
この個人的世界が人生なのである。

東日本大震災が発生した時に、福島に住んでいた人と、東京に住んでいた人では、意味が違うわけである。
東京在住者は、伝聞として福島のことは知っているが、自らの個人的人生として悲劇を体験したわけではない。
もしくは、東京に住んでいても、福島に住んでいる家族が死んだという人はいるだろう。
たとえば親が死んだとして、東京でその訃報に接するわけである。
親が死んでも構わないという人もいるだろうが、たいていはそういうことはなく、自分自身の問題として、(つまりまったく他人事ではない問題として)、絶望や悲嘆が頭を埋め尽くすのである。
われわれは家族と連帯することで人生を歩むように設定されているわけである。
東京でテレビを見ながら、赤の他人が死んだ模様を眺めるのと、自分の親が死んだという悲報に接するのとでは違うのである。
当事者として、親の死に接するという状況である。
これはまさに「体験」としての問題なのである。
地震そのものは体験してないにしても、そこで家族が死んだという他人事ではない体験をさせられるのである。

誰かの訃報に接するとして、それは単に死んだという情報を認識するだけの問題ではない。
嫌な相手が死んで笑みがこぼれることもあれば、自分の子どもが交通事故で死んで絶望することもあるだろう。
そのような「体験」としての問題が重要なのである。
自分の人生にとっての意味を体験するのである。

金が無くなって飢えて苦しんでいる自分を他人事として扱うことは出来ない。
大富豪として暮らすのも、極貧でみじめな生活をするのも、
どちらでも同じとするわけにはいかない。
極貧でみじめな生活なら、まさにそれを100パーセント完全に体験しなければならないのである。
いろいろと欲を断念することで、人生という重みを減じることも出来るのだが、
借金取りに追われ、借金を返すために東奔西走するとなると、
清貧を気取るわけにもいくまい。
われわれは森羅万象を洞察する千里眼など決して持ってはいないので、
あくまで肉体として人生を体験するだけなのである。







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