2014.08.23

知能の可視化

学歴について論じたがる人は多いが、知能の可視化について言及する人をほとんど見たことがない。学歴を否定する人はたいてい、「人間性」とか「人間力」とか「人物本位」という言葉を多用するので、学歴=知能というのは当然の前提として共有しているように思える。しかし、仮にそれを念押しして確認したら、「学歴と知能は同一ではない」とか「知能という概念そのものが疑問」という遁辞を述べるのであろう。

われわれのたいていの能力は肉体的な特徴として否応なしに象嵌されており、誰が見てもわかるように晒されているから隠しようもないのだが、知能に関しては少し接した程度ではわからない。知能が可視化されてないことが、人間の平等性の最後の砦になっているので、迷信にすがる愚者が少なからず存在し、論理が破綻した議論が繰り返される。そもそも人間性に深い関心があるなら、宗教にもっと関心があるべきだし、俗塵を断ち、山谷を跋渉し、大日如来でもキリストでもいいが、その輪郭の先にある万有を追い求め、内面と語り合うべきである。人物評価で一流大学に入ろうという横紙破りが版図を広げていくのは、まさに末世であり、人間の堕落が極まったのである。

われわれは知能の可視化のために大学に行くわけである。資格試験の大半は、その資格がないと特定の業務が出来ないという法律の背景があるし、単なる能力の証明としての試験はあまり普及していない。知能を証明するためには、大学入試しかないのが現状である。脳科学が発達して、人間の知的能力が細かい部分まで可視化されるとしたら、大学は確実に廃れる。大学に行っても能力の証明としての意味がまったくないなら、専門学校と同じであり、講義を受ける価値がない。理数系ならまだしも、文系はほとんど意味がないだろう。

いわゆる知能検査は、あまり重視しすぎると、何度も繰り返してコツを掴むということになるし、知能検査で高得点を取るための予備校が出来るであろうし、素ではわからない問題も、テクニックで解答しうるから、なかなか難しい。最大限に学習したことを前提としての試験となると、大学入試となってしまう。

知能の可視化そのものを憎悪する人間は確実に存在するから一筋縄ではいかない。人間はどこかで自分を過大評価していたいものであり、可視化されてない知能は好都合なのである。明らかな不細工が、自分を白皙の美青年だと思い込むのは難しいが、知能なら幻想が抱ける。知能は低いが賢者であるというセルフイメージは充分に可能なのである。これは自尊心の問題だから、いくら論破しても死に物狂いで抵抗するであろう。

二流の頭脳の人間が(人物評価で)一流大学に行くとか、一流の頭脳の人間が(人物評価で)二流大学に行かされるとか、これは学歴コンプレックスによる騒擾事件でしかない。活動家で埋め尽くされた安田講堂が陥落した時に、東大生は僅か六パーセントしかいなかったが、それと同じ反知性主義が、極めて穏健に行われているのである。自らの知能を証明する唯一の手段が大学入試であるのが問題の根幹だから、知能の証明と教育を分離するのもひとつの案である。







スポンサードリンク

最近の記事
月別アーカイブ
カテゴリー
リンク
スポンサードリンク
RSSフィード
プロフィール

ukdata

Author:ukdata
FC2ブログへようこそ!

katja1945uk-jp■yahoo.co.jp http://twitter.com/ukrss
あわせて読みたい
あわせて読みたいブログパーツ
アクセスランキング