忙しい時に、「もう一人の自分がいたら」と言う人がいる。
これはただ働きしてくれるもう一人の自分を望んでいるわけである。
飯も食わないし、報酬も要求しないし、単なる奴隷をやってくれることを望んでいるのだ。
本当にもう一人の自分がいたら、それは他人である。
飯は食うし、報酬は要求するし、エゴだってあるわけである。

たとえば人気漫画家がいるとして、「もう一人の自分」がいたら、作業時間が半分で済んで万々歳に思えるし、二倍描けるなら今までの倍は儲かる気がするが、飯は食うし、分け前として半額は求めるであろうし、作品の方向性を巡って喧嘩になるかもしれない。
ただ働きの奴隷という条件でない限り、もう一人の自分がいてもメリットはないだろう。

つまり食欲も性欲もエゴもない妖精さんとして、もう一人の自分が手伝ってくれたら便利という話でしかない。
もう一人の自分が出現し、食欲と性欲とエゴを持った存在として立ち現れたら、めんどうである。
わたしがオリジナルで、向こうが従属的な存在とはっきりしているならまだいいが、相手にも主体性があるのだろうし、どっちがオリジナルかという問題も含め厄介に思える。
こんなめんどくさい存在が生まれてくるなら、まだ赤の他人の方がマシに思える。

他人はもう一人の自分だということも出来るわけである。
人間それぞれスペックの格差があり、またこのスペック差により人生の明暗が極端に分かれるので、他人が「もう一人の自分」という考えはピンと来ないのだが、とはいえ、人間として共通のフォーマットがあることは確かである。

これまでの人類は、この耐えがたい人生を、自分の魂が唯一無二のものであると信じて生きながらえてきたというのに、それぞれが大量生産された魂を持って、エゴで反目し合っているだけだと考えると、あまりにもむなしいことである。







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