体型論や骨相学は廃れたが、間違ってるから廃れたというより、骨格である程度人間のタイプが想像出来るのは経験的に知っており、それなりに正しいのだが、当て嵌まらないことも多いので厳密性を欠くからである。
たとえば肩幅が広い人間を見ると、知性に欠けた人物という先入観を持つわけである。
これはたぶん経験的に正しいのである。
いかにも腕力を誇示した体型であるが、スポーツが出来るかというと、出来ないことが多いと思う。
肩幅が広くてガッチリした人間が俊敏な動きで快足を飛ばしたりすると、ずいぶん意外な気がするものである。
また頭部が岩石のように大きい傾向もあるように思う。
ガッチリとした広い肩幅に眉目秀麗な美青年の小顔が載っているのは、あまりイメージがわかない。
身長も低いように思える。
全体的にロースペックでありながら、なぜかふてぶてしく、その闘士のような骨格が誇示するパワーで強さを維持しているのである。
あまりにも似たようなタイプが多すぎるので、種族と考えて差し支えあるまい。
ドワーフというキャラクターは、このタイプの人間から生まれた気がする。
われわれは、ガッチリした体型の人間が知性的だったりすると、意外な印象を受けて感心したりする。

肩幅が広いと(実際より)強そうに見えるから、それに応じたパーソナリティーが出来るという考えも成り立つであろうし、また腕力に自信があるからインテリにならないという説明も可能ではある。
インテリは肉体弱者特有の理論武装であり、知的能力とは無関係と評することも可能だ。
しかし、肩幅より身長の方が重要であると思うし、身長が高いと馬鹿という傾向はないはずである。

三島由紀夫がボディビルを開始したのと、「金閣寺」を執筆開始したのはだいたい同時期である。
ボディビルの開始は昭和30年9月16日である。
週刊誌で早稲田大学ボディビル部が紹介されているのを見て興味を持ち、早大の玉利齋コーチから指導を受け始めた。
「金閣寺」の連載開始は昭和31年1月からである。
創作ノートに書かれている「人間最後のcomplexの解放が必ず犯罪に終るといふ悲劇」という言葉が興味深い。

肉体と知性を対比させるのは「仮面の告白」からすでに主題となっているが、なぜそこまでこだわるのか、今ひとつ理解しがたいものである。
「太陽と鉄」というエッセイでは、こんな風に述べたりしている。

近代社会における肉体と精神の乖離は、
むしろ普遍的な現象であって、
それについて不平をこぼすことは、
誰にも納得のゆく主題であるのに、
「肉体の思考」だの「肉体の饒舌」だのという
感覚的なたわごとには誰もついては行けず、
私がそのような言葉で自分の混迷をごまかしていると感じるかもしれない。


三島由紀夫の筋肉に関する記述はとてもわかりづらいが、ナードとマッチョの問題と考えれば、人類普遍の問題とも言える。
とても平易なテーマのはずだが、いざ語るとなるととてもわかりづらいのである。

「仮面の告白」で主人公が同性愛的感情を抱く近江という人物は、このように描写されている。

骨格こそ秀でたれ、彼の背丈は私たちの間でいちばん高い学生よりも余程低かった。
ただ海軍士官の軍服めいた私の学校のいかつい制服は、
少年の成長しきらぬ体では、ややもすれば着こなしかねるのを、
近江一人は自分の制服に充実した重量感と一種の肉感を湛えていた。


背は高くないが、骨格が秀でていて、重量感があると記述されているのが興味深い。
そもそも近江という登場人物にモデルがいるのかわからないし、いたとしても、実際の人物そのままに描く必要はあるまい。
三島由紀夫がマッチョな人物の理想像を描写した際に、背が高くないが骨格が秀でているとしたのは、やはり肩幅と知性の反比例という先入観をなぞっているのである。







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