不幸といっても、二種類に分かれる。借金苦とか極めて深刻な難病で苦しんでいるとか、そういう拷問のような不幸である。まさに暴力で蹂躙されているような肉体的な重みを持った血まみれの不幸である。もうひとつは、不幸である自分が嫌だという問題である。死ぬなら大往生で死にたいとか、そういう迷信である。野垂れ死にしようが、家族に看取られて死のうが変わりはない。死という点では、他の誰とも等価であるはずである。「幸福な死」というのは迷信であり、そしてこれこそがわれわれ人間の病なのである。苦しんで死んだとしても、死んだらどうせ無になるのだから同じであろうし、もしくは宗教への篤い信仰があるなら、死後に救済されることを信じたらよいのである。要するに悪霊という世俗的な迷信の問題である。もしくはみじめなまま死ぬのはプライドが許せないという単なる見栄っ張りである。拷問のような不幸に蹂躙されている人は気の毒であるとしても、幸福な死にこだわって愚痴ってるのは本物の馬鹿なのである。死に方によって貴賎があるというのは、極めて通俗的な発想である。唯物論的に考えるなら死に方に貴賎はあるまいし、宗教的に考えても死に方に貴賎はあるまい。冴えなくて惨めな死に方が嫌なのは、自分の人生に納得出来ないという往生際の悪さなのである。この死んでも死にきれないという感覚は誰でも思い当たるにせよ、これは克服するべき病なのである。かつて病原菌というものの存在が知られていない頃は、病気を加持祈祷で治そうとしたし、もしくはその病気を誰かの祟りだと言って大騒ぎしたのである。もうそういう迷信は克服されなければならない。生家から終の棲家まで、われわれの人生の足取りのすべては死によって消えるのである。家族制度も解体されつつあるのだから、惜しむ家名もあるまい。後始末をする側としては綺麗な死体の方が好ましいが、清掃の都合だけで死を判断するべきではあるまいし、腐乱死体や轢死体をどうしても無くしたいなら、安楽死を制度化するべきであろう。死に方によって明暗が分かれるというのは、生き残った者からの解釈でないし、実際は死によって現世から完全に絶たれる。頼みもしないのに生み落とされ、苦しんでようやく死ねても、梟首台に晒されながら意識だけは残り、現世を見続け、自らへの巷説に神経を尖らせないといけないとしたら、それは煩悶の極みであろうが、こういう地縛霊とか悪霊とか、そういう迷信は完全に切り捨てるべきであるし、死の床で版図を広げた褥瘡の疼痛など、あっさり分解される。生や幸福への執着心はそろそろ卒業しなければならない。







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