デカルト「方法序説」。
私どもの感覚はややもすれば私どもを欺くものであるから、
有るものとして感覚が私どもに思わせるような、
そのようなものは有るものではないのだと私は仮定することにした。
また幾何学上の最も単純な事柄に関してさえ、
証明をまちがえて背理に陥る人があるのだから、
自分もまたどんなことで誤謬を犯さないともかぎらぬと思い、
それまで私が論証として認めてきたあらゆる理由を虚偽なるものとして棄てた。
最後に、私どもが目覚めていて持つ思想とすべて同じものが眠っているときにでも現れる、
かかる場合にそのいずれのものが真であるとも分からない。
この事を考えると、かつて私のうちにはいって来た一切のものは
夢に見る幻影とひとしく真ではないと仮定しようと決心した。
けれどもそう決心するや否や、私がそんなふうに一切を虚偽であると
考えようと欲する限り、
そのように考えている「私」は必然的に何ものかであらねばならぬことに気づいた。
そうして「私は考える、それ故に私は有る」というこの真理がきわめて堅固であり、
きわめて確実であって、
懐疑論者らの無法きわまる仮定をことごとく束ねてかかっても、
これを揺るがすことのできないのを見て、
これを私の探求しつつあった哲学の第一原理として、
ためらうことなく受け取ることが出来る、と私は判断した。

われわれの魂は大量生産されている。デカルトはわれわれより優れた頭脳を持っているだろうが、どれだけ頭の出来が違おうとも、認識や思考回路の仕組みは同じである。70億人いるなら、70億の主体性があるのであり、そこらの犬や猫でも、それぞれに主体性はあるわけである。五感を通して世界を認識し、その現象世界の中で行動への意志を持つというのは、人間の特権ですらない。主体性なんて、犬や猫の子どものようにポンポン生まれてくるのである。わたしに「自分」があり、「主体性」があるというのは、自分が唯一無二であることの証明にはならない。またわれわれの論理は思考回路を共有している人類には通用するだろうが、それを超える真理だとは言い難いのである。われわれはテレパシーが使えないから、個々に分断されており、想像で他者や世界を理解するしかないのである。70億人いれば70億人の頭の中に同じパソコンが入っている状態のはずだが、自分が認識できるのは自分の魂だけであり、他者のことは想像するしかない。それがゆえに、自分の主体性を特権的だと錯覚するのである。理屈で考えれば、大量量産された主体性が並列的にこの地球上に70億存在しているはずなのだが、他人の頭の中が似たようなものだろうとしても、自分自身の主体性しか感じ取れないのだから、これを後生大事に思うのも自然の理である。このような他者との同一性への気づきが、なんら愉快でないことが問題なのである。自らの核だと信じている魂が、大量生産された品物に過ぎないという事実は何ら楽しくないのである。われわれは、それぞれ快楽で分断されており、俗的に言うなら、乱交で快楽を万人と共有することが出来ない。同じパソコンが頭に入っている状態のくせして、それぞれが固有性を信じて、その固有性への信仰は快楽によって支えられており、たとえばそれは道重さゆみちゃんのような形で呈示されているのだから、その稀覯書を紐解いて中に書かれている文字を読むことに恋着するのは当然であり、無関心を決め込むことなど出来ないのである。現し世の存在とは思えない超越的な少女が、道重さゆみちゃんという名前をもって、希少価値を持って立ち現れてきて、それに憧れてるのが一人や二人ではなく、同じ美的観念の持ち主である地球人類の誰もが眷恋するであろうから、これは、われわれ人類に普遍的に組み込まれた憧れなのだろうと感じざるを得ない。厩戸王という平凡で血筋の絶えた皇族を、後年「日本書紀」で碩学の天子として描き出したのは、(厩戸王は天皇にはなってないが)天皇制の範として、人々から崇拝される聖者が必要だったのである。聖徳太子のエピソードはかなり盛られていて、おそらく厩戸王本人の原型をまったくとどめていないくらいに理想化されたものだが、これに対して道重さゆみちゃんは、聖徳太子くらいのレベルの聖者であるのに、ごく普通に実在しており、それがこれから妊娠や結婚や出産というプロセスを辿らなければならないという問題である。道重さゆみちゃんはファンの男女比が逆転しており、数日前の武道館でも二階席の七割くらいは女子だったし、ライト層では完全に女子の支持の方が高いと思われる。女子のファンなら道重さゆみちゃんが誰とセックスしようが問題ないだろうが、男子にとっては極めて深刻な問題である。われわれ人間が主体性を持って存在しており、そして欲望は個々の独立的なものであるから、ほとんどの男子はその憧れの対象から疎外されねばならないのであり、これから連続的に悲報に接することを考えると、それだけで絶望せざるを得ない。30億人くらいの男子が自らの男根を道重さゆみちゃんの膣内に挿入したいと考えているのであり、しかしそんなに入るまいし、なんか、これだけの多人数がひとりの聖者に対して主体的な欲望を抱いているというのは、飢饉の絵巻物のようであり、地獄絵図そのものである。道重さゆみちゃんが永遠にアイドルをやってくれるならそれは千年王国であろうし、「世間は虚仮にして、唯仏のみ是真なり」という聖徳太子の言葉も、道重さゆみちゃんが言うなら、われわれは精神的な偶像崇拝の念だけで満たされるであろうが、これから俗界に降りていくとなると、その美しさが肉感的な質量をもって際立ってくるのであり、動物的な煩悶に立ち返るしかないのである。乃木将軍のように殉死するのもひとつの考えではあろうが、どちらにせよ、このわれわれの難儀な主体性は死によって回収されるまでひとつも理想世界に触れ得ぬまま、世界の中心たる主人公として夢見ざるを得ないのだから、第三次世界大戦で人類が根絶やしにされ、主体性という悪疫が焼き尽くされるのが、衆生救済の最後の手段なのである。







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