トルストイの「アンナ・カレーニナ」の冒頭は、
幸福な家庭はすべて互いに似通ったものであり、
不幸な家庭はどこもその不幸のおもむきが異なっているものである

という有名な言葉で始まる。どうもこれがあまりピンと来ないのである。人間の本質を突いているように思えない。

「幸福」とか「不幸」という言葉の幅が広くて、それがゆえに理解しがたいのだと思われる。この幸福と不幸を、アッパークラスと底辺層に当てはめてしまうと、不幸に多様性があるどころか、底辺なんてみんな同じであり不幸なんて似たようなものという結論に到達しそうである。

これはあくまで作品のストーリーに即して解釈するべきなのである。「アンナ・カレーニナ」では二組のカップルが対照的に並列されて描かれる。ひとつはアンナとヴロンスキーの情熱的な愛であり、もうひとつはリョーヴィンとキティの平穏な生活である。この二組のカップルを対比させて考えるべきなのであり、一般的な幸福と不幸に当てはめてはならないのである。

「アンナ・カレーニナ」のヒロインであるアンナは、ヴロンスキーとの不倫のゴタゴタの末に最後は轢死体となるので、言うまでもなく不幸な人間なのだが、この情熱的な才気に溢れたヒロインの生き方は個性的であると、トルストイは位置づけているのである。それに対して、リョーヴィンとキティの暮らしは、いかにも普通であり、絵に描いたような幸せなのである。リョーヴィンとキティの暮らしはほとんど割愛しても作品は成り立つはずだが、トルストイは筆を省かずに平凡な幸福を長々と描いたのである。そしてこの平凡さと照らし合わせることで、アンナという才気溢れるヒロインの輪郭が極めて非凡なものとして浮かび上がってくるのである。

ネットではまいんちゃん(福原遥)が好きという人が多いのだが、実は誰もたいして好きではないのである。わたしもまいんちゃん(福原遥)は好きだが、本当に好きなのかを問い直してみると、実はたいして好きではない。人から愛されやすいタイプというだけなのである。愛されやすい人間に漠然とした好感を抱いているだけであり、だから嫌いなわけはないが、好きという度合いはあまり強くない。知名度はあるから、ある種のミーハー根性で応援はするのだが、実のところ、有名人であるということを除いては、まったく惹かれる要素がない。人から嫌悪される要素が皆無であり、大人を脅かすことがない温厚で無害な気質が望ましいだけであり、崇拝の対象ではないのである。

たぶんトルストイが「幸福は似通っている」というのは、この福原遥のような状態を指すのである。決して才気に溢れた情熱的な人物ではないし、超越的なカリスマ性もない。福原遥を崇拝しているファンはいないはずである。たいして欲もなく、平和的で、笑顔にあふれる毎日を過ごしている。こういう愛されやすいタイプの人間が存在するというだけなのである。たぶんこの長所からして、今後も仕事はもらえるだろうし、それなりに受容されるではあろうが、無害であるから好まれているのが現実である。文学的に表現するなら「ありふれた少女」と言うしかない。パーセンテージの問題として言えば、福原遥がありふれているはずがなく、ソドムの瘴気にまみれて生きているわれわれから見たら、かなりレアリティが高い存在であるが、異能性や異質性や異端性からとても遠いところにいる存在なので、「ありふれている」と表現するしかないのである。







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