久々にジャック・モノーの「偶然と必然」を読んだのだが、やはり生物というのは合目的性が高すぎるのである。
(なおこのエントリーは「偶然と必然」の要約ではなく、単なるわたしの感想文である)。

人工のものと自然のものとの区別は、われわれのだれが見ても、すぐわかるし、
なんの曖昧さもないように思われる。
岩・山・川・雲などは自然のものである。
ナイフ、ハンケチ、自動車などは人がつくったもの、つまり工芸品である。
ところが、これらの判断を分析してみると、
それらが直接的なものでもなく、
厳密に客観的なものでもないことがわかる。
ナイフというものは、利用、つまり前もって計画された性能を頭において
人間の手でつくりあげられたものだということを、
われわれは知っている。
人工のものは、それがつくられる前から頭の中にあった意図を具体化させたものである。
またその形は、それが実際に形をとる以前に予期されていた性能で説明が付けられる。
われわれが知り、また考えているような川や岩の場合には、
そういうことはまったく言えない。
これらのものは物理的な諸力の勝手気ままな活動によって作り上げられたもので、
これらの力に何らかの意図があったなどと考えるわけにはいかない。
少なくとも、科学的方法の基礎的基準、すなわち<自然>は
客観的であって、意図的ではないということを受け入れる限り、
そう言ってよい。

われわれがこの世界や人間について語るときに、偶然の積み重なりとして解釈する時もあれば、何らかの設計的な意図を感じて解釈する時もあるわけである。
なぜか無神論的に考えるとき、人間以外の設計者はいないと考えがちである。
宇宙が出来てから、137億年経過しているわけで、たまたまごく最近われわれ人類が創造的な発明することが可能になったということらしい。
人類以外にも、なんらかの設計思想を持った存在がいても不思議ではないし、137億年経過して、初めて人工物を設計できる生物が誕生したと考えるよりは、他にもいると考える方が自然である。

蜜蜂は巣を作るが、あくまで巣を作っているだけである。
いろいろ発明することはないわけである。
蜜蜂がいろんなものを創意工夫して作れるのなら、創造的で文化的と言えるのだが、あれしか出来ないのでは、腎臓が尿を作っているのと同じと言える。

ダーウィン(1809-1882)の「種の起源」はあの当時としては、生物に関する極めて深い知識を元に書かれた名著であり、この書物が優れていることは否定できないが、そもそも書かれた年代からして、決してバイブルのように扱うべきではないだろう。

また遺伝子について語る際にも混乱が見られる。
単なる自然淘汰として語るときもあれば、遺伝子が設計意図を持っているとして語るときもあるのである。
何にせよ、われわれはこの混乱を続けなければならない。
今すぐはっきりと結論が出る問題ではないのである。

この混乱は、一人の人間の中で行われているのである。
同一人物が「すべては偶然」と言ったり、「神の意図を感じる」とか言ったりするわけである。
実際のところ、いくら神は死んだと言おうとも、人間という生き物に何らかの設計思想を感じないわけにはいかない。
ある時は無神論で語り、ある時は神の意図を感じながら語るという混乱は現時点の科学のレベルだと避けられないのである。







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