2014.10.31
仏教。輪廻転生。インド人の迷信。
一ヶ月くらい前のkindleセールで角川が実質七割引だったので、仏教の本を数十冊買って、ずっと読んでいるのだが、これによってかなり無常観が強まっている。マルキ・ド・サドがどれだけ瘴気漂う反社会的な情景を活写しても何とも思わないが、歴史的に聖者と認知されている高僧が、これだけニヒリズムを押し出してくると、その感化の力は凄まじく、重力の魔で四肢が動かなくなるのも時間の問題である。
まず言えるのは、仏教は説得力があるのである。たとえばキリスト教なら、死んだら天国で道重さゆみちゃんと結婚できるとか、そういう妄想に浸れるが、仏教はこの手のものを完全に否定するわけである。(親鸞のように念仏を唱えれば極楽浄土というのもあるが、仏教書をいろいろ読んでいると、どうしてもそっちの安易な方向は選べない)。天国など絶対にないと断定されるともっともな話である。妄想を否定するのだから、説得力があって当然である。今からいきなり木星が爆発する可能性がないとは言えないし、どのような可能性も完全に0とは言い難いから、普段のわれわれはどんな可能性にでも縋りうるのだが、しかし仏教書を紐解くと、0だと断定出来るようになる。
初期の仏教に関しては、輪廻転生に関するインド的迷信が背景にあるわけだが、これが中国から日本に渡ってくると、どうしても曖昧になるわけである。インド人以外のほとんどは人生は一回だと考えているし、輪廻転生への根強い迷信など持っていない。われわれは一回だけの重要な人生が惨劇に過ぎないことを嘆いているわけである。この絶望を世俗的な欲の否定によって解決しようというのが仏教であろうし、出家して仏門に入るのも、人生をことさらに軽んじているのである。一回限りの人生がどうでもいいという意思表示として出家するのであり、悪夢のように繰り返されるインド的輪廻転生から脱出しようとか日本人は考えていない。
仏教がわれわれの精神を毒するのは、宗教でありながら哲学の体裁を取っている悪質さであり、哲学書のように書かれていても、釈迦を否定するわけにはいかないし、(実際は釈迦はネパールで生まれているが)インド人特有の妄想と斥けるわけにもいかない。本来なら、釈迦の発想こそが、インド的な謬見として克服されるべきとも言えるのに、創唱宗教で創唱者を露骨に否定するわけにもいかないので、かなり困った問題である。とはいえ、仏門に入っていないわれわれとしては、釈迦をインド人の荒唐無稽さの極みと断じてもいいわけである。インド人という民族そのものが迷信の固まりであり、まずはそこが問われるべきなのである。ヒンズー教が支配してもやはり輪廻転生に固執してるのだから、これは教義というより民族的な迷信の問題であり、なんか時間が進まない状態で、延々とぐるぐる回っている歴史無き世界にいるらしい。
三島由紀夫の「豊饒の海」が失敗作となったのも、人生が無意味という仏教の説得力に屈した結果であろう。意味があるのかと考え込んだら、意味がないに決まっているわけである。これは仏教がすごいのではなく、「人生に意味はあるのか」と考えたら無いに決まっており、仏教は、そのニヒリズムのメソッドを利用しているだけなのである。
まず言えるのは、仏教は説得力があるのである。たとえばキリスト教なら、死んだら天国で道重さゆみちゃんと結婚できるとか、そういう妄想に浸れるが、仏教はこの手のものを完全に否定するわけである。(親鸞のように念仏を唱えれば極楽浄土というのもあるが、仏教書をいろいろ読んでいると、どうしてもそっちの安易な方向は選べない)。天国など絶対にないと断定されるともっともな話である。妄想を否定するのだから、説得力があって当然である。今からいきなり木星が爆発する可能性がないとは言えないし、どのような可能性も完全に0とは言い難いから、普段のわれわれはどんな可能性にでも縋りうるのだが、しかし仏教書を紐解くと、0だと断定出来るようになる。
初期の仏教に関しては、輪廻転生に関するインド的迷信が背景にあるわけだが、これが中国から日本に渡ってくると、どうしても曖昧になるわけである。インド人以外のほとんどは人生は一回だと考えているし、輪廻転生への根強い迷信など持っていない。われわれは一回だけの重要な人生が惨劇に過ぎないことを嘆いているわけである。この絶望を世俗的な欲の否定によって解決しようというのが仏教であろうし、出家して仏門に入るのも、人生をことさらに軽んじているのである。一回限りの人生がどうでもいいという意思表示として出家するのであり、悪夢のように繰り返されるインド的輪廻転生から脱出しようとか日本人は考えていない。
仏教がわれわれの精神を毒するのは、宗教でありながら哲学の体裁を取っている悪質さであり、哲学書のように書かれていても、釈迦を否定するわけにはいかないし、(実際は釈迦はネパールで生まれているが)インド人特有の妄想と斥けるわけにもいかない。本来なら、釈迦の発想こそが、インド的な謬見として克服されるべきとも言えるのに、創唱宗教で創唱者を露骨に否定するわけにもいかないので、かなり困った問題である。とはいえ、仏門に入っていないわれわれとしては、釈迦をインド人の荒唐無稽さの極みと断じてもいいわけである。インド人という民族そのものが迷信の固まりであり、まずはそこが問われるべきなのである。ヒンズー教が支配してもやはり輪廻転生に固執してるのだから、これは教義というより民族的な迷信の問題であり、なんか時間が進まない状態で、延々とぐるぐる回っている歴史無き世界にいるらしい。
三島由紀夫の「豊饒の海」が失敗作となったのも、人生が無意味という仏教の説得力に屈した結果であろう。意味があるのかと考え込んだら、意味がないに決まっているわけである。これは仏教がすごいのではなく、「人生に意味はあるのか」と考えたら無いに決まっており、仏教は、そのニヒリズムのメソッドを利用しているだけなのである。
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