仏教書を読み続けているのだが、絶望的な終の棲家にやってきたという心象風景が広がっているわけである。仏教がなぜこんなに重苦しいのかと考えると、なにげに処女崇拝を否定しているからなのである。あくまで煩悩を否定しているだけで「処女崇拝は禁止」と明記されていることはないが、たぶんここが肝心なポイントなのである。キリスト教なら処女崇拝が根底にあり、処女崇拝のための宗教とも言えるが、仏教だと(明記はされないが)禁じられているから、これによって、重々しい感じがあるのである。法華経に耽溺していた宮沢賢治は生涯童貞だったが、あのような生き方が求められるわけである。仏教で詩想を得てあれくらいの作品が書けるならいいが、ライフスタイルの問題として、ああいう悟りきった内面宇宙をもった人間がたくさんいる社会というのもずいぶん奇妙である。

男性の少なからずは、童貞でなくても童貞性を背負っている。最高の女を抱いたという達成感がなければ、童貞と同じ立ち位置なのである。おそらくこの問題は過去へと照射されるのである。ここに至るまでまだなしえていないという未踏破の問題であり、過去への悔恨である。わたしが過去に一度でも道重さゆみちゃんを抱いたことがあるとすれば、今後は女など一切触れなくていいと泰然自若としているであろうし、なんら実存的不安を抱くこともなかったはずである。ゲーテが永遠に女性的なるものと表現したような、そういうレベルの美人を抱いたことがなければ、何かしら拭いがたい悔恨があるはずなのである。

三島由紀夫の「金閣寺」の第一章でヒロインが死ぬのも、ヒロインを抱けなかった主人公がニヒリズムを深める構図であるし、過去に向かう性欲の問題と言えるわけである。ヒロインが海軍の兵士と恋愛して妊娠して心中のような形で死を遂げるのも念を押している。ヒロインが非処女になって死ぬのが第一章であるのは、つまり、ヒロインの少女は処女であるという古来からの物語の基本を壊しているわけで、ここが重要なポイントなのである。処女崇拝を反転させた形で、その陰画が描かれるわけである。第二章以降は、ヒロインに絶望した怨嗟が延々と綴られるのだから、これほど処女崇拝にこだわった作品はないのである。

処女崇拝が文学のテーマとして反復されるのは、道重さゆみちゃんくらいの美人を抱いたことがあるという人間が少ないからであろうし、これまでの人生で未だに最高の女を抱いてないという不満足さに普遍性があるからである。この実存的不安を紛らわせるための方法が処女崇拝なのであり、文学作品のヒロインの少女が処女であるのは、まだこちら側にいるという安心感であり、「金閣寺」の絶望を回避しているのである。小乗仏教から大乗仏教までいろいろあるのだし、道重さゆみちゃんはすべての仏性を備えている菩薩であるという考えも出来なくはないが、おそらくそれは通俗的に過ぎるであろう。仏教において処女崇拝は存在し得ないし、処女だからまだこちら側にいるという幻想もないし、女はすべてあちら側の存在なのである。女の肉体を豚の腸詰めと同じように考えることが求められるのだが、これはこれで新たなる絶望であり、別の種類の長患いが始まったということでしかない。金閣寺を燃やしてもその美しさは消えないという命題に行き当たるのである。実際のところ、道重さゆみちゃんはそろそろ「あちら側」に行くのであり、何となくこちら側にいるような安心感は消えるのである。今までは戦間期に過ぎなかったと言えるし、ここからようやく黙契が破られ、本当の戦端が開かれるのであろう。







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