仏教がそれなりに支配を広げてきたのは、この世に意味がないという考えが特殊というより、むしろ平凡であったからであろう。輪廻転生への迷信が強いインドで生まれたことで、そのニヒリズムが強化され、宗教性を得たのであろうが、諸行無常というのは、誰でも思い当たるものである。

問題なのは、ニヒリズムを徹底的に強めることで得をするのか、ということである。仏教というのは独善的なのである。キリスト教なら神様がいて、われわれは単なるひとりの人間である。釈迦もソクラテスも自分で書いているわけではないので、かなりの部分は潤色や偽作であるにしても、それはともかく、釈迦というインド人(実際はネパール生まれだが)はやたらと自分を重大な存在と考えているわけである。自分が重要という独善的な感覚は、仏教が中国から日本に伝来しても、一貫して受け継がれている。仏教書を読むとニヒリズムに囚われるのは、自分の人生とかどうでもいいという軽佻さに至れないからである。

わたしが煩悩を消そうとすると、どうしても道重さゆみちゃんの問題になるのだが、道重さゆみちゃんの美しさは普遍的であるだろうか、と言うなら、現象世界においては普遍的だと言うしかないのである。さすがに物質そのものに美しさは無いだろうが、現象世界の問題として、われわれの美-醜に関する観念は絶対的である。地球人類70億人すべてが道重さゆみちゃんを美しいと感じるわけである。われわれが現象世界の住人であるからには、この感覚を否定するわけにはいかない。どこか遠い星に別の生命体がいたら、現象世界の仕組みは違うであろうし、そもそも美的観念があるかどうかわからない。視覚で物質を把握しているのかどうかもわからない。だがわれわれが人類の一人であるからには、道重さゆみちゃんの美しさは絶対に否定できないのである。

今後道重さゆみちゃんがどんな男と寝ようがどうでもいいはずなのだが、釈迦の独善性に思考をゆだねてしまうと、自分が重要人物という発想にどっぷり浸かり、自分の人生が重要であるという観念に囚われるので、「どうでもいい」という常識が働かなくなり、これによって厭世主義が猖獗を極め、悲劇をさらに緋の色で血まみれにさせるのである。自分が世界で最も大事というのが生物の基本であるとしても、そこを弱めて「どうでもいい」と思わないと、苦しみが増すばかりである。釈迦が人生をやたらと苦しいと捉えたのは、自分のことを重要人物と思いこんでいるためである。そして自分だけが仏になったとか妄想を垂れ流す次元にまで行ったわけである。何がどうなろうが死んで無になるはずなのに、あきらめが悪いとしか言いようがなく、40過ぎても婚活してるババアと大差がないのである。







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