優れた馬を交配させても、より優れた馬ができあがるだけで、馬以外の別の生物に進化はしない。
進化論が漫然と受け入れられている理由として、優生学との混同があるように思う。
優秀な個体同士で繁殖を続けると、別の種に進化するかのように思われている。
人間が進化するとしたら、ホモサピエンスとは別の生き物になるわけである。
進化論と優生学は混同するべきではない。

かつて天地創造は6000年前に行われたと信じているキリスト教徒がたくさんいたわけである。
ニュートン(1642-1727)も聖書の内容をそのまま信じている人間であった。
彼にとって、聖書は神話ではなく人類史だったのである。
だからニュートンは、聖書と人類史の辻褄を合わせることに没頭したのである。

さすがにニュートンよりは、進化論者の方が正解に近いのであろうが、進化論者はたいした発見をしてないのである。
多細胞生物が生まれたり、オスとメスに分かれて有性生殖を始めたのも10億年くらい前で、これが現在の生命の基本となってるのは摩訶不思議であり、どう突然変異したら、多細胞生物が出来るのかさっぱり想像が付かない。
これでは奇跡とか千年王国と大差ない。

1970年代に出版されたドーキンスの「利己的な遺伝子」がやたらと賞賛されたのは、生まれつき役割など決まっていないという進歩的な知識人が利用しやすかったからである。
もしくは女が男を選ぶという図式を強調したいからである。
少なくともドーキンスの消費のされ方は、優生思想としてのものであり、進化論としては誰も興味を持ってないのである。

地球上の生物は、一種類である。
DNAを元に遺伝して繁殖していくわけである。
これと違う仕組みの生物は存在しない。
地球に生物が誕生しうるのなら、まったく違う方式の生物が存在していてもいいはずである。
生物が一度しか誕生してないのも不思議なことである。
(もしくは別の規格の生物が誕生していたとしても、設計図が遺伝するという仕組みがなければ、すぐに死んで終わりだろう)。

人間のような、つい最近言葉を使えるようになった生きものでさえ、洗濯機や冷蔵庫を作っているのだから、(聖書の神とは別の存在が)生物を設計していても不思議ではあるまい。
何にせよ、進化や天地創造の問題と、ひとつの種の中で選別して競争する優生思想はまったく違う。
ゲームの制作者が誰かということと、その作られたゲームをどのように攻略するのか、という問題は次元が違うであろう。







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