神経症という流行病があったが、ほとんどこれで悩んでいる人の話を聞かなくなった。神経症とは、人生を楽しんではいけないという価値観の持ち主が感染する病なのである。本当に楽しみたくないわけではなく、禁じられているからこそエロティシズムがあるというバタイユ的な感性が根底にある。禁欲のゲージを高めるだけ高め、嶮岨な壁を築き上げ、幻想が膨れあがるほどに、その先にある快楽が大きくなるというシステムに囚われているのである。これは悪しき理想主義でしか無く、どれだけ禁欲しても、超越的な快楽の報酬がやってこないという事態になる。こうやって禁欲しすぎると神経症になるのである。人生をエンジョイするというのは、天使だと思っていた女を色情狂のヤリマンだと見なすことでもあるし、快楽を日用雑貨として捉えることであるので、天上界の美に触れるような感覚を失わせるから、超越的な絶対者からは遠くなってしまうのだが、花柳界の楽しみとか手練れの娼婦ならではの色気もあろうし、絶対者への夢を捨てて、紊乱した風紀が炯々と輝く俗世を楽しむ気になれば神経症など罹らないのである。フロイト精神分析は燎原の火のごとく神経症を流行らせ悪化させ甚大な被害をもたらしたのだが、性的抑圧が神経症の根底にあることを見抜きながら、これをうまく軟着陸させることが出来なかった。修道院に入っている少女は決して女を捨てておらず、それどころか、最高の性的対象なのであり、20歳前後の修道女(清純な処女)を抱けるとしたら、それは最高の悦楽に違いないのだが、この種の理想をゆるやかに弱体化させることが必要なのである。フロイト精神分析の実態は、どれだけ自分が被害に遭ったかを主張するものであったし、作り話を繁殖させ、人間を蝕む苗床でしかなかったのである。さて、神経症の時代は終わったのである。精神分析が猛威を振るい、フリーセックスで少年少女が蹂躙され、そういう様々な20世紀の悲劇を通過して、人生を適度にエンジョイすることが健康な精神を生み出すとわかったわけである。ではわれわれの人間的な悩みが解決したのか、というと、あまりそうではないのである。鬱という新しい病気が蔓延しているわけである。要は、エンジョイする準備は出来たが、現実にセックスする相手がいないので鬱になるわけである。もしくはセックスの相手がいても見てくれが悪いから鬱になるとか、あるいは借金で首が回らないから鬱になるとか、いろいろ事情はあるであろう。神経症的な禁欲主義から卒業し、人生を楽しもうとしても、自らのスペックの問題として、繁華街の目抜き通りを賑やかす快楽のおこぼれにあずかれない現実が待っているわけである。神経症の時代から鬱病の時代にシフトしただけなのである。人生をエンジョイしたいから鬱病になるのである。だからと言って禁欲主義に戻れば、古くさい神経症になってしまう。空閨をかこつ孤独な夜に悩みは尽きず、解決もないという話である。







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