われわれの感覚は、決して真理ではあるまい。宇宙の真理に触れることは出来ず、われわれは感覚という人間的真実に付き合わされているわけである。この感覚というものが厄介なのは、スイッチを切りたくても切れないことである。餓死は悲惨だと思われているが、これも空腹の辛さが用意されているからである。空腹感という余計なものがなければ、ダイエットが簡単にできるし、また餓死による自殺も簡単である。感覚のスイッチさえ切れるのであれば、人生の耐え難さは軽減するであろうし、いったい、この苦しみの多さは何なのかという問題である。どうせ死んで無になるのに、苦しみから逃れるために、多大な労苦を強いられているわけである。苦しみを減らすために苦労するというわけのわからないループである。もちろん個人個人は死んで無になるので、生きている間に掻き集めた戦利品など雲散霧消するし、どれだけ苦しもうとも、その苦役から解放されるのだが、われわれと別人ではあれど、似たような個体が飽きることなく繁殖して次々と湧いてくるのだから、この悲劇に終わりはないのである。現象世界は人間的真実でしかないし、決して宇宙の真理ではなく、そもそも三次元空間がすべてのはずがない。宇宙の外側まで考えると、人間が認識している三次元の世界は人間的真実でしかなく、この現象とか感覚の世界は忌ま忌ましい桎梏なのである。理屈を駆使して幻想だと断じるのは容易いのだが、なにしろ苦痛のスイッチが切れないので、いくらこのディストピアが迷妄だと断じても、苦しみの真実性は否定しがたい。苦痛に鞭打たれて現実に強制参加させられていて、その現実とやらが、宇宙の真理ではなく、人間的な現象世界でしかないという絶望であり、この穢土で生命が繁殖し、その生命としての体験をして死んでいくだけで、宇宙の真理に触れることすら出来ない。苦しみとは、生命維持のための警報であり、喉が渇いたら際限なく警鐘を打ち鳴らす仕組みがなければ容易く死んでしまうが、こういう渇望に左右されて生き延びてもどうせ死ぬので、あらゆる苦しみや風雪に耐えることなく、あっさり白旗を上げて死んだ方がいいという問題である。苦痛というのは「生きろ!生きろ!」とわれわれを叱咤するのだが、どうせ寿命で殺してくれるのだから、なんか懲役を終える前に死んだら困るとでも言いたげな、欺瞞に満ちた親切であると言わざるを得ない。新自由主義によって、人類や民族が共通の物語を生きているという幻想も絶たれたのであるし、個人個人が勝手に生きて勝手に死ぬ自由だけが横たわっており、ここまで断絶されたとなると、人類の歴史性に恭しく一礼する必要はあるまいし、すべての富を手にした泥棒貴族を除いて、現世に存在している意味など寸毫も認められないと断じていいのである。これに生き抜く価値があると言い張るのは奴隷商人くらいなのである。







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