2014.12.23
天皇。ソビエト。共産主義。総力戦。新聞。
1945年以前の日本は暗黒の中世だったという価値観が染みついているが、まずペリーの黒船のところから歴史観がゆがんでいる。ペリーはこの時の航海記を書いているわけだが、その中で何度も、というか100回くらい、日本は教養レベルが高いと繰り返し綴っている。ペリー本人の著作で、日本人の教養豊かな様子がみずみずしく活写されているのに、なぜか日本という遅れた国が、先進国になめられていたというイメージで捉えられている。この問題に関してはペリーの本を読むのがもっとも手っ取り早い。
日本は元々そんなに軍国主義というわけではない。明治から富国強兵とか言っていたけれども、軍国主義に傾斜したのは、1905年に日露戦争に勝った時に、辛勝であることが理解されなかったからであり、新聞が戦意高揚で部数を伸ばすことを学んだからである。賠償金を取り損ねたと政府批判を繰り返し、大衆を煽ったわけである。皮肉にも、政府の御用新聞とも言える「国民新聞」が(今日から見れば妥当な見解である)講和支持の論陣を張っていたので、焼き討ちにあったわけである。当時の朝日新聞は暴動を煽り「警官が発狂」とか見出しを付けていたのだし、この頃から大衆煽動のプロであったわけである。
日露戦争の勝利は、当時の有色人種に多大な感銘を与えたので、アジアの盟主というアイデンティティーを得るのも可能だったのだが、あくまで脱亜入欧であったし、アジアを蔑む路線にいったから、その後の八紘一宇とか大東亜共栄圏とかあまり説得力がない。
1917年のロシア革命でソビエトが誕生してしまったため、日本が1925年に治安維持法を制定したのは当然といえる。共産主義者を弾圧したのは、妄想でやっていたのではなく、隣国にソビエトがあり、極めて重大な現実的脅威があるからやっていたのである。小林多喜二の拷問死のむごたらしい写真はショッキングだが、これは1933年のことであり、共産主義者を弾圧するのは自然といえる。問題なのは、反共とは別のところでも、言論弾圧が広がったことである。明治新政府が正統性を確保するために、天皇が大元帥陛下として陸海空軍を統帥するということにしていたのだが、明治時代に山県有朋が考え出したことが、昭和天皇の時に毒々しく開花したのである。
外交的には、第一次世界大戦が終わったあたりから日本がだんだん追い込まれるようになり、「日本が馬鹿にされている」という被害者意識を募らせていったのである。一般の日本人がどれだけ心の底から怒っていたのかは不明だが、どうでもいいと公然と言うわけにもいくまいし、天皇と重ね合わせた国体の尊厳に基づいて、主戦論を唱えるしかないのである。日露戦争の時は、かなり慎重に戦略を検討していたのだが、1930年代あたりからは、やけっぱちな高揚感に包まれるようになった。東條英機はアメリカと戦争をしたかったわけではないが、ハル・ノートの要求に応じて中国から撤退するとか出来るわけがないので、開戦するしかなかったのである。軍部の中では、2.26事件の失敗を契機に皇道派が失脚しており、東條英機が首相になったのも、彼が統制派だったからなのだが、統制派だから天皇軽視というわけでもなく、天皇の尊厳は豚のように太る一方だったのである。
また一億総玉砕とか、ああいう狂った発想に関してだが、第一次世界大戦から総力戦の時代になったのも大きい。国家総動員とか言ってたのは、戦争そのものが総力戦となったからである。それに東京大空襲や、広島・長崎の原爆こそが、戦闘員と非戦闘員の区別など、アメリカもしていないことの証明である。何にせよ、1945年以前がずっと暗黒だったという理解は間違いである。本当の意味で、総力戦で玉砕するというムードに陥っていたのは、日米開戦の1941年から1945年までの四年間であろうし、特に末期の一年くらいではなかろうか。あの当時の状況で平和主義というのはあり得ないので、軍事行動を準備するのは当然だが、戦意のコントロールに失敗したのである。戦艦大和など、まったく役に立たず、最後は沖縄で特攻し3000人と共に轟沈したのも、日露戦争でバルチック艦隊を破った成功体験が招いた悲劇なのである。成功して知識が増えるのではなく、反知性主義が跋扈するのだから、人間が等しく死ぬのにも理由があるのだろう。なぜか人間は成功すると思考停止に陥るらしいのである。
日本は元々そんなに軍国主義というわけではない。明治から富国強兵とか言っていたけれども、軍国主義に傾斜したのは、1905年に日露戦争に勝った時に、辛勝であることが理解されなかったからであり、新聞が戦意高揚で部数を伸ばすことを学んだからである。賠償金を取り損ねたと政府批判を繰り返し、大衆を煽ったわけである。皮肉にも、政府の御用新聞とも言える「国民新聞」が(今日から見れば妥当な見解である)講和支持の論陣を張っていたので、焼き討ちにあったわけである。当時の朝日新聞は暴動を煽り「警官が発狂」とか見出しを付けていたのだし、この頃から大衆煽動のプロであったわけである。
日露戦争の勝利は、当時の有色人種に多大な感銘を与えたので、アジアの盟主というアイデンティティーを得るのも可能だったのだが、あくまで脱亜入欧であったし、アジアを蔑む路線にいったから、その後の八紘一宇とか大東亜共栄圏とかあまり説得力がない。
1917年のロシア革命でソビエトが誕生してしまったため、日本が1925年に治安維持法を制定したのは当然といえる。共産主義者を弾圧したのは、妄想でやっていたのではなく、隣国にソビエトがあり、極めて重大な現実的脅威があるからやっていたのである。小林多喜二の拷問死のむごたらしい写真はショッキングだが、これは1933年のことであり、共産主義者を弾圧するのは自然といえる。問題なのは、反共とは別のところでも、言論弾圧が広がったことである。明治新政府が正統性を確保するために、天皇が大元帥陛下として陸海空軍を統帥するということにしていたのだが、明治時代に山県有朋が考え出したことが、昭和天皇の時に毒々しく開花したのである。
外交的には、第一次世界大戦が終わったあたりから日本がだんだん追い込まれるようになり、「日本が馬鹿にされている」という被害者意識を募らせていったのである。一般の日本人がどれだけ心の底から怒っていたのかは不明だが、どうでもいいと公然と言うわけにもいくまいし、天皇と重ね合わせた国体の尊厳に基づいて、主戦論を唱えるしかないのである。日露戦争の時は、かなり慎重に戦略を検討していたのだが、1930年代あたりからは、やけっぱちな高揚感に包まれるようになった。東條英機はアメリカと戦争をしたかったわけではないが、ハル・ノートの要求に応じて中国から撤退するとか出来るわけがないので、開戦するしかなかったのである。軍部の中では、2.26事件の失敗を契機に皇道派が失脚しており、東條英機が首相になったのも、彼が統制派だったからなのだが、統制派だから天皇軽視というわけでもなく、天皇の尊厳は豚のように太る一方だったのである。
また一億総玉砕とか、ああいう狂った発想に関してだが、第一次世界大戦から総力戦の時代になったのも大きい。国家総動員とか言ってたのは、戦争そのものが総力戦となったからである。それに東京大空襲や、広島・長崎の原爆こそが、戦闘員と非戦闘員の区別など、アメリカもしていないことの証明である。何にせよ、1945年以前がずっと暗黒だったという理解は間違いである。本当の意味で、総力戦で玉砕するというムードに陥っていたのは、日米開戦の1941年から1945年までの四年間であろうし、特に末期の一年くらいではなかろうか。あの当時の状況で平和主義というのはあり得ないので、軍事行動を準備するのは当然だが、戦意のコントロールに失敗したのである。戦艦大和など、まったく役に立たず、最後は沖縄で特攻し3000人と共に轟沈したのも、日露戦争でバルチック艦隊を破った成功体験が招いた悲劇なのである。成功して知識が増えるのではなく、反知性主義が跋扈するのだから、人間が等しく死ぬのにも理由があるのだろう。なぜか人間は成功すると思考停止に陥るらしいのである。
スポンサードリンク