なんで生きてるのかわからない、という疑問がつきまとうわけである。これは人類が文明を開いてから、ずっと思い悩んでいたことである。永遠に生きてるならともかく、どうせ死ぬので、なぜ苦しい人生を生きているのか皆目見当が付かないわけである。死んだ後に天国に行くというファンタジーもあるのだが、ごく普通に考えて、死んだら完全無欠な無になるであろうし、破壊するために作り続けるというループが無意味すぎる。

とはいえ、「これが意味です」と絶対的に与えられていても、これはすごい困るのである。絶対的な神が現れて、聖像を彫りなさいと言われたら、それが絶対的な目的であるのだし、ただひたすら聖像を彫るしかないのである。これは人間の主体性の死である。何も説明されず、箍が外れたような放置プレイをされているからこそ、何かしら意義らしきものを探すしかないのである。この説明の欠落ゆえに、人生の無意味さに逢着するのも致し方あるまい。絶対神に「これが意味」と言われたら、われわれはもはや手足でしかなくなるし、自由意志などそこには存在しない。

生きる意味というのは明確には決まっておらず、このディストピアの中で、使えそうなものを手当たり次第掻き集めて、それで分業的に世界を構成し、妄想めいた価値観を衝突させながら、それなりの運命性を得ていくものなのである。この宇宙や自然に向き合えば、偉大なる設計者の存在を感じずにはいられまいし、それを篝火としながら、真実を求め、その存在証明に成功するかどうかは人それぞれだが、どちらにせよ最終的な答えはわからず何となく死んでいくのである。銀食器に煌めくような色合いで盛りつけられた奢侈な御馳走を前に、道重さゆみちゃんと優雅な午餐を楽しもうが、大衆酒場で蜷局を巻いて、食品添加物でクズ肉をつなげたサイコロステーキを安酒で流し込もうが、個人の魂は完全にデリートされる。道重さゆみちゃんの膣内で射精する彼氏も、死んだら無になり、その喜びや幸福も無に帰するのだと考えると、意外と世の中平等という気がしてくるのである。この彼氏が「生きる意味はあった」と言うのは自由だが、それは道重さゆみちゃんという最高の女性とセックスできた喜びの表現でしかあるまいし、本当に哲学的に人類の生存する理由を見いだしたわけではあるまい。意味という単語の差し示す範囲が広いから、混乱があるのである。生きててよかったというのと、宇宙の真理に到達したというのを混同してはならない。ああ、もちろん宇宙の真理はブラックボックスになっているので、決してわからないし、だから、道重さゆみちゃんとセックスしている彼氏の幸福の実感に「意味」という言葉を当てはめるのも通俗的には適切であろうし、この宇宙の9割以上を包んでいる暗黒物質の謎を解き明かす必要はない。何にせよ、どれだけ人生で幸福を集めても、死んだら一欠片の思念も残らないほどに焼き尽くされるので、短い人生で体験する塗炭の苦しみなど、ちょっとした驟雨のようなものである。金閣寺の主人公が最後に金閣と心中しようとして最上階の究竟頂の扉を叩く。そこは金箔に包まれた超越的な煌めきを持つ部屋である。だが、どんなに叩いても扉は開かない。主人公は心中を諦めて、脱兎のごとく駆け出し、一息ついて煙草を取り出し、紫煙をくゆらしながら「生きよう」と思うのである。なにが「生きよう」なのかさっぱりわからないが、この空疎な決意と共に蹌踉していくのが、大概の人間に与えられた状況なのである。この不可知性とニヒリズムの極地こそが、まさに根拠のない意味をわれわれに作らせるのである。これこそが自由なのである。







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