神様がサッカーをやろうと思ったら、決して22人すべてをやろうとはしないだろう。
それではサッカーにならない。
自分の右手と左手でジャンケンしても、楽しくないのと同じである。
だから、右手と左手を切り離し、それぞれ独立性を与える必要があるのである。
これによってジャンケンもサッカーも出来るわけである。
プレイヤーがそれぞれの人生を背負い、それぞれに喜怒哀楽があり、ルーザーになれば塗炭の苦しみを味わい滂沱の涙を流して悶絶することもある。
何者にもなれなかった人間として、この世界の中心から遠く離れた辺鄙なあばら屋を終の棲家とし、絶望の後半生を過ごすこともあるだろう。
そうでなければゲームとしては成立しないのである。
自分と他人というのは、神様からもぎ取られた右手と左手なのである。
右手と左手がそれぞれ独立的に行動してこそ、ジャンケンになるので、そういうことになっているのである。
また、サッカーがすべてでなければ、そこに人生を賭ける重みがないので、人生はひとつのことしか出来ないようになっている。
神様から分離され、シングルタスクしか出来ないようにさせられたのが、われわれなのである。
それでは死ぬと、まるで悪夢から覚めたように全知全能の神としての自分を取り戻すのかと言えば、それはわからない。
神様が気まぐれに、自分の右手と左手を喧嘩させているようなものだと喩えると、ゲーム終了後にその手は元に戻るような気もするが、自分の右手や左手をたくさんコピーして戦わせて遊んでいるのかもしれないし、この喩えなら、使い捨てるのが妥当である。
少なくとも神様はシングルタスクではあるまいから、われわれの現在の自我は死とともに鋳つぶされる。
神の恩寵で、現世の自我がそのまま天国に行けるということはない。
地上の楽園で美女と褥を共にしようが、宗門の道に入りディストピアで空閨を託つ人生を過ごそうが、どちらでも完全消去され無になるなら、まったく変わりはあるまい。







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