われわれの人間関係は選べないように出来ている。たとえば小学校だと、家が近いとかいう理由で「友達」になったりする。中学校とか高校だと、同じ部活だということで「友達」になったりする。このあたりは半強制的である。大学のサークル活動は強制ではないが、人間関係は運の要素が大きいであろう。親も選べないし、教師も選べない。ある人が会社に入るとして、どんな人が同僚や上司になるかは選べない。ともかく、自分が配置された場所にいる人間と関わるということになるわけだ。

生徒が教師を選べないのはなかなか不思議な気がするのだが、おそらく教師は生活指導という点でモラルを体現する存在であり、ここが取り替え可能であってはならないのであろう。教師は親の代役というポジションであり、子どもが親を選ぶということがあってはならない。モラルというのが親や教師の尊厳によって担保されているからには、ここを崩すわけにはいかないのである。さすがに大学生になれば大学教授がモラルを体現するわけではないが、あれこれ生活指導される高校生までは、誰が自分の教師になるかを選択する権利が無く、それでいて学級崩壊とか、その教師の尊厳を値踏みする行為が行われることは多々あるわけである。普通に教師を選択することが出来ず、強制的に組まされる教師と尊厳の折衝をしなければならないという極めて不健全な関係なのである。反抗する権利よりは普通に教師を選べる権利があった方が健康的に思えるが、学校が生活指導の場であるとすると、今ひとつそぐわないのであろう。生徒が教師を選べないというのはさほど絶対的ではなかろうし、永遠に続くルールではないと思うが、選べないのが世界の本質なので、その選択不能性の象徴として、教師も選べないのである。自分が選んだ教師に生活指導してもらうというのは、あり得ない話ではないにしても、ここだけ世界のルールを変えても意味はあるまい。







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