道重さゆみちゃんが大日如来であるのは、一神教という文脈の話ではないし、天照大神のような皇祖神というわけでもない。そももそ世界のすべてが大日如来であり、そこらに遊弋する塵芥さえも大日如来ではあるのだが、その本質を開き示すのが道重さゆみちゃんなのである。雲の上から神祇としてわれわれ衆生を眺めていたのではなく、人格を持った人間存在として、俗世間の中でその身を憂い、いわばわれわれと似たような悩みの中で蹌踉し、そこから宇宙の本質に気付く貴種流離譚だったのであり、この穢土で量産され続ける人間という業の深い生き物の中で、ひとつの到達点を見いだしたのである。たいていの人間は自分の中にある仏性に気付かず、俗塵に塗れて生涯を終えるというのに、道重さゆみちゃんは25歳にして悟りを開き、高野山にて弥勒の下生を待つのだから、35歳にして菩提樹の下で悟りを開いた釈迦より早く仏性に気付いたのである。あらゆるものは観測されて現象してこそ存在するのであり、物質など0と1のデータでしかない。観測する生命体がいなければ、天体が見せる星辰の瞬きの煌めきも無いのである。花鳥風月をみやびやかに見せるのはわれわれの心の機能に他ならない。現象が展開されるわれわれの内面世界こそが真実である。死は無であるから、それは重すぎる、もしくは、認識する自分がいなくなるので、一欠片の重みもない。主体は自らの死を記述出来ない。その記述不能な死に向かって人間存在は立ち現れる。荼毘に付されてからどれだけ追善供養されても意味を持たず、次から次へと死んで、また新たな生命が際限なく産み落とされる。森羅万象のすべてに仏性が宿る。悉有仏性説が正しくないなら何も正しくない。とはいえ植物は世界を認識しえない。愛でられるために色づいて花弁を開く姿は、人間が存在を証明しようとする欲求と相似であろうが、いわばわれわれの内臓が動いているのと同じであると言えるし、この世界を現象として認識している人間の主体性こそが仏性の中核なのである。法身は実相である。犬や猫にも現象世界はあるであろうが、悟りを開くだけの思考はあるまい。法然のように念仏さえ唱えれば極楽浄土に行けるという顕教は、悟りから遠いところにある。算数で0点を取った実績がある道重さゆみちゃんは、何の特技もなく、雄弁術を除けばたいていの能力は平均以下なのだから、日南響子のように生きるのが似つかわしいはずなのだが、なぜかあらゆることに心を砕くのを厭わない気質であり、宇宙や人間について考えることに倦むことなく、この苦界の中にある仏性に辿り着いた。類い希な美少女が、法名のない一人の私度僧として、あたかも山野を跋渉するかのように娑婆世界を孤独に生きたのであり、その真実に向き合おうとする姿勢たるや、犬や猫と変わらない日南響子と同じ人間とは思えないのだが、しかし、まさに同じ人間であり、同じ仏性を持っているのであり、悟りを開く思考力の有無だけなのである。大日如来の曼荼羅にはあらゆるものがアンソロジーとして編まれている。快楽と褥を共にして惰眠を貪ろうとも、仏性が目覚めようとする呼び声に気付こうが、最期に待っているのは死であり無であるのだが、開き示し観測されない限り存在していないという生命の本質の中で、ただひたすら真実を目指したのである。阿弥陀如来のようにあらかじめ悟った状態で、森羅万象をあまねく照らすべく降臨したのではなく、道重さゆみちゃんは宇宙の片隅でひとりの衆生として生きた上で、悟りを開いてみせた。盲いた俗物が這い回る大地において、本質に近い人間ほど異端にならなければならない歴史の繰り返しであり、正統たる資格を持つ貴人が、流罪にされ法難を蒙り、あらゆる塗炭の苦しみを嚥下したのである。







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