われわれはいつでも審判しているのである。
エピソードを聞いて、それに審判を下すというのがわれわれの日常生活である。
たぶんそれがわれわれの生活の基本なのである。
何かしら量刑を思案して、それなりの落としどころを考えるわけである。
罰を与えるという感情なくしては、社会は成り立たない。
もしくは罰がないなら人間は成り立たない。
失敗しても罰がないとしたら、ゲームが成り立たない。
罪への罰にせよ、失敗への罰にせよ、それがないと、何のためにゲームをやってるのかわからないし、「うまくいった」ということさえない。
サッカーというゲームが無く、ただ単にボールを蹴るだけで楽しいかというと、かなり疑問である。
練習試合でさえ、うまくいけば嬉しいし、うまくいかなければ悔しいという感情はそれなりにあるわけである。

罰ではなく報酬を与えることもあるだろうが、報酬にしても、その適切な金額を考えるわけである。
報酬は何でも100万円というわけではあるまい。
この価値判断もよくよく考えると不思議な問題である。
それこそ一日中価値判断をしながら生きているわけであり、エピソードを体験したり、もしくは他人のエピソードを聞くたびに、裁判員として何らかの判断を下しているのである。
報酬と罰の調整で成り立っているのが社会である。

根本的にわれわれは肉体の心配をし続ける人生なのである。
食欲・性欲をはじめとして、病気にならないかとか、いろいろ不安になりつつ、一日中肉体に配慮している。
われわれが肉体を持っているのは、責め苦を味わうということが大半で、拷問器具と言って差し支えあるまい。
これがあるから、損害を与えられれば憤怒するのが当然であり、罰について考えざるを得ない。
肉体の苦痛というのが共通の物差しとなっており、動物と違って他人のエピソードを言葉で知りうるから、これにより法が生まれる。
あれこれニュースを耳にするたびに、その苦痛の量を推し量り、どれだけの刑罰に値するか考えているのである。

犬や猫がどうなのかというと何とも言えないが、何しろ人間以外は他人のエピソードが聞けないのだから、あまり道徳観念は発達しないであろう。
動物には言葉がないので、自分の経験しかないわけである。
動物でも単純な報復はするが、あまり人生を通しての差引勘定はしないと思われる。
そもそも動物だと人生設計という概念がないであろう。
その日暮らしである。
「人生をメチャクチャにされた」というのは動物にはない発想である。
おそらく人間だけが損害という概念があり、不毛たる債権者として、賠償請求をする生き物なのである。
被害者として、この不良債権が回収できるのは稀であり、宅間守に殺されたら池田小に賠償金を払って貰うとか、そういう責任の押しつけくらいしかないのだが、とはいえ、賠償請求を断念しないのが人間なのである。







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