ある人が実存主義者であるかという議論はほとんど意味がない。
なぜならこのわれわれの世界と歴史が実存主義的だからだ。
ハイデガーが実存主義者と呼ばれるのを嫌がったのは、サルトルと一緒にされたくないというのが大きいだろうが、実存主義者であろうがなかろうがどっちでもいいのである。
世界に投げ込まれ、それを主体的に存在了解しているという二つの側面は「存在と時間」に描かれているのだから、受動性と能動性のどちらかに固定して考えるのは無益である。
いつの間にかどこかの世界に産み落とされて何らかの役を与えられ、それを主体的に生きるしかないのだから、世界の構造そのものが実存主義であるし、それは紛れもないのだから、肯定するとか否定するとか、そういう態度決定に大きな意味はない。

時間の一回性の中で生きているから事実はひとつである。
未解決事件はたくさんあるわけだが、事実はひとつである。
これは事実が客体として素朴に実在しているという意味ではない。
宇宙が素朴に実在していて、それが人間精神という鏡に素朴に映し出されるというわけではない。
認識と対象の合致などない。
そのような素朴さではないのだが、しかし世界内存在として事実はひとつなのである。

われわれはこの世界の枠組みの中で他人に出会うわけである。
われわれはそれぞれの役割を演じて、その役割として他人に出会う。
本当の意味での素顔というのはない。
たとえば親子関係でも「親」と「子」という前提があっての人間関係である。
親と子という立場を取り払った状態というのはないのである。
ハイデガーはあまりこういう社会的関係については述べていないが、たとえば警察官とニセ警察官は事実として区別できるのである。
これは力の問題である。
もしくは実効支配の問題であろう。
正統性をどこまでも問わずとも、事実は事実なのであり、それが歴史である。

ハイデガーは不安という言葉を多用するが、つまり、われわれはいつも自分の心配をしていないといけないのである。
自分の人生を他人事と考えようとしても、腹が減るとか、女とやりたいとか、金策の問題であるとか、暗い未来の話であるとか、それらが強制的なイベントとして迫り来るのである。
たとえば徴兵されて戦地に赴いて、本当に戦うとして、その一連の動作を、すべて感覚をオフにして行うことなど出来ず、飢えたり、喉の渇きや、行軍による肉体的な苦痛にしても、あらゆるものが全力でやってくるのである。
サバイバルゲームをやって疲れたから休憩するというわけには行かず、お遊びではない自分の人生として、退避することも撤回することも出来ずに戦わされるのである。
死んだら苦痛から退避は出来るが、自分自身が消えるという問題である。







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