赤の他人は本当にどうでもいいわけであり、生きても死んでもどっちでもいいし、どちらかと言えば死んでくれた方がいいが、しかし本当にどうでもいいから、死んでくれなくてもいい。
生きていてもそれはそれで構わないんだ。

そういう赤の他人という生き物に囲まれて、われわれは生きている。

では、なぜその赤の他人に囲まれていて、世界を共有出来るのかと言えば、そいつらにも家族はいて、そこに象徴的な相似性があるからである。

甲さんというどうでもいい赤の他人がいるとして、そいつが殺されたとする。
この時点ではわれわれにとってどうでもいいわけだが、甲さんの家族が登場してくると話は違ってくるのである。
甲さんの父親の憤りや、甲さんの母親の嘆きに接すると、その父親や母親という象徴的な立ち位置から、なんか他人ではないぞという気がしてくる。

もしくは甲さんが働き盛りの男だったら、残された子どもの悲しみでもいいのだが、そういう<父>とか<母>とか<子ども>という象徴的な役割が出てくると、なんか赤の他人の甲さんが他人には思えなくなってくる。

これが天涯孤独の乙さんだったら、乙さんが死んでも誰も出てこないし、乙さんが工事現場で転落死したとしても、「乙さんに家族なんかいないだろうなあ」ということで片付けられてしまう。

甲さんも乙さんも、赤の他人であるはずだし、本当にどうでもいいはずなんだけど、甲さんには家族がいるので、われわれも完全な赤の他人とは思えないのである。

そもそもわれわれの存在自体が、なんらかの役割を演じることで存在しているわけである。
だからこそ、赤の他人の家族は他人ではないのである。
家族の中での役割という位置づけを得た時点で、赤の他人が他人ではない気がしてくる。

天涯孤独の乙さんが死んでもいいのか、と言えば、そりゃあ赤の他人なんだからどうでもいいのである。
甲さんは遺族がいるので、なんか赤の他人ではないような錯覚をしてしまうが、乙さんは天涯孤独であるから、家族関係という形で、われわれと重ね合わせてみることは出来ない。
天涯孤独の人でさえ、乙さんとは重なるところがないのである。
天涯孤独は役割ではないので、何ら象徴性を持たないからである。

何度殺しても足りないような丙さんを殺したとして、丙さんに家族がいたら、何か申し訳ないような気がするわけである。
いや、実際は、家族さえもまとめて殺したいかもしれないが、まあ反省の演技も必要であるから、丙さんの家族に申し訳ないと落涙してみせるわけである。
減刑のために一芝居打っているにしても、それがすべてではないはずで、やはり赤の他人でも、家族という象徴的な構図の中で重ね合わせると、なんか他人ではないような気がしてくるのである。
たぶん潜在的には仇討ちという観念も含めて、自らの家族に復讐される因果応報ということも想像しながら重ね合わせるのだろうが、何かしら「役割」に引き付けて考えると、赤の他人が他人ではないような気がしてくるのだろう。







スポンサードリンク

最近の記事
月別アーカイブ
カテゴリー
リンク
スポンサードリンク
RSSフィード
プロフィール

ukdata

Author:ukdata
FC2ブログへようこそ!

katja1945uk-jp■yahoo.co.jp http://twitter.com/ukrss
あわせて読みたい
あわせて読みたいブログパーツ
アクセスランキング