2015.03.26
「蜘蛛の糸」。新自由主義。コミュ力。
その途端でございます。今まで何ともなかった蜘蛛の糸が、急にカンダタのぶら下っている所から、ぷつりと音を立てて断れました。ですからカンダタもたまりません。あっと云う間もなく風を切って、独楽のようにくるくるまわりながら、見る見る中に暗の底へ、まっさかさまに落ちてしまいました。
後にはただ極楽の蜘蛛の糸が、きらきらと細く光りながら、月も星もない空の中途に、短く垂れているばかりでございます。
御釈迦様は極楽の蓮池のふちに立って、この一部始終をじっと見ていらっしゃいましたが、やがてカンダタが血の池の底へ石のように沈んでしまいますと、悲しそうな御顔をなさりながら、またぶらぶら御歩きになり始めました。自分ばかり地獄からぬけ出そうとする、カンダタの無慈悲な心が、そうしてその心相当な罰をうけて、元の地獄へ落ちてしまったのが、御釈迦様の御目から見ると、浅間しく思召されたのでございましょう。
しかし極楽の蓮池の蓮は、少しもそんな事には頓着致しません。その玉のような白い花は、御釈迦様の御足のまわりに、ゆらゆら萼を動かして、そのまん中にある金色の蕊からは、何とも云えない好い匂が、絶間なくあたりへ溢れて居ります。極楽ももう午に近くなったのでございましょう。
「蜘蛛の糸」はカラマーゾフの兄弟にも似たような話があり、天使が老婆を救おうとするが、老婆が他人を蹴落とそうとしたのでネギが切れてしまうというものである。
この「蜘蛛の糸」の主人公はカンダタだと考えられている。
御釈迦様や、もしくは(カラマーゾフの兄弟の)天使が罰を下したとは書かれていない。
あくまで悪いことをすると神様が見ているよ、という教訓話である。
この類の教訓話は馬鹿正直の推奨であり、ワシントンと桜の木でも、本当に実行したら馬鹿を見るだけである。
新自由主義の時代においては、カンダタこそ正義であり、蜘蛛の糸は登り切れる、つまり天罰が下らずに天国に行けると考えられており、実際に天国に行けるのである。
われわれも新自由主義が正しいと教えられているから、蜘蛛の糸を登り切って凱歌を上げるカンダタをイメージして生きているのである。
だが、実のところ、「蜘蛛の糸」というのは、天罰を下すべきかどうか、という問題に読み替えるのも可能である。
つまりカンダタが他人を蹴落としてぐいぐいと昇ってきたら、その糸を切るかどうかという判断である。
経済というのは、売れたか売れなかったかの問題だから、結果がはっきりしているのだが、意外と貢献度がわからないものである。
企業の業績としては明白だが、それぞれの社員の貢献度は判然としない。
コミュニケーション能力がGDPに対してプラスの効果を持つのか、というのもよくわからないわけである。
コミュ力とは蜘蛛の糸を登り切って勝ち抜く能力とも言えるし、排他的なスキルでもある。
その一方でリーダーシップを発揮し全体を押し上げることも出来る。
端的に言えば政治力であるから、他人を蹴落としてるのか、全体をまとめてるのか、よくわからないわけである。
何かを発明したとか、売れ筋の商品を開発したとか、そういうのなら明らかだが、コミュ力に関しては、貢献しているのか否かが判然としないのである。
新自由主義はすべての嘘くさい教訓を葬り去ったと言っていいのだし、自分だけが蜘蛛の糸を登り切って凱歌を上げる物語が肯定されるのだが、経済の問題として、新自由主義の敵は新自由主義者である。
思想的な新自由主義は、蜘蛛の糸を登り切ろうという人間を礼賛するものだが、経済競争に本当に勝とうとするのなら、企業はこの糸を切断して然るべき、とも言える。
コミュ力の高い人間が、他のスキルの高い人間を蹴落としていることもあり得るわけである。
「蜘蛛の糸」というのはカンダタの選択ではなく、御釈迦様として糸を切るかどうかの決断の問題である。
漫然と新自由主義に従って見逃せばいいものではないであろう。
スポンサードリンク