よく世界が滅びればいいという人がいる。
これが滅びないのは人類がたくさんいるからである。
狭い空間に100人だけいて、その100人が人類のすべてなら、自分以外の99人を殺害することは可能であるような気もする。
世界が滅びればいいと言う人が何もしないのは、人類が70億人もいるので滅ぼせないからである。
もちろん今日の世の中では核兵器というものがあり、人類の絶滅も可能ではあるが、かなり限られた権力者しかそれを実行できないわけである。
実行されることがあるかもしれないし、ソビエトがあった頃なら現実にあり得ただろうが、いずれにせよ、単なる一般人が人類の絶滅など出来ないのである。

この滅ぼせないというところが、人類の本質なのである。
70億人という特定可能な人数ではあるが、ほとんど無数というべき数の人間が存在しているのである。
こうでなければ、通り魔願望のある人間に世界は滅ぼされていただろう。
たぶん通り魔というのは、シンボリックに人類の絶滅を願う行為であり、誰でもいいというより、誰だかわからないからこそ、その人類の普遍的な在り方に即して、人類への挑戦として、誰かを殺害しているのである。
それしか出来ないわけである。
文字通り絶滅させることは出来ないわけで、なにかしら象徴的に世界を滅ぼしてみせるような行為をするのが限界である。

言うまでもなく、70億人という人数は最近のものである。
たぶん地理的な広さを問題にするべきであろうし、地理的な広さ故に絶滅が出来ないということも出来る。
地球を一周するだけでも大変なのに、しらみつぶしに地球全体を踏破するとなると、ひとりの人間の肉体では不可能である。
これについては長々と述べる必要はあるまい。

世界人類の大半の人はほとんど面識がないわけである。
ほとんどの人を知らないからこそ人類という概念があるわけである。
人類、つまり類的存在として、共通の認識システムを持っており、それぞれが別の人生を体験している。
他人の人生も想像で理解できるわけである。
もちろん想像に過ぎないから、陳腐な想像しかしてないだろうが、その想像だけが頼りなのである。

それぞれが肉体というシステムを持ち、その共通の構造体で世界を理解しているのである。
空閨を託っている人間でも、人生を謳歌している人間のことは想像が付くのである。
快楽は体験できなくても、その快楽の想像は出来るのである。
貧乏人が金持ちの生活を想像するとなれば、それは陳腐であろうし、本当の意味で細部まで再現出来るわけがないが、この漠然とした感じこそが重要なのである。
この想像の陳腐さも普遍的であろうし、何かしら、共通の答えが出てくるのである。
こうやって共通規格を持たされていることで、世界が成立しているのである。
たとえば駅があってホームがあって電車が走っているのは、人類として存在しているからなのである。
誰が乗るのか特定しているわけではないが、人間が使うことを想定しているわけである。







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