われわれは顔への関心が非常に強いわけである。
顔が存在の基本である。
たとえば顔を隠した状態でもコミュニケーションは可能であろうが、それはあくまで隠されている中に顔があると確信しているからである。
顔を隠すのと顔が無くなるのとではまったく違う。
あまりにも顔というものへのこだわりが普遍的過ぎて、これはよほどのことがない限り、病的とすら言い難いのである。
醜貌恐怖は病気と言われるが、美人が好きというのは当たり前である。
醜貌恐怖にしても、極端すぎるから病気と言われるだけであり、不細工で恥ずかしいと考えるのは普通である。
この世界から顔を廃止したいという願望はあまり聴いたことがないわけである。
たとえばパンチラに対して、なんで布が見たいのかという問いかけは頻繁に目にするし、実際ここ最近は見せてもいいのを重ねて履いているのが普通という感じであろう。
どうしてもパンツを見たいという関心も低下してきているように思える。
だが、下着とは違って、顔というのは、われわれの本能から切り離すのが無理と言っていい対象であり、パンツがただの布であると思えるかのように、肉体の頭部に味覚や視覚や聴覚の器官が並んでいるだけと思うはずがない。
人間の目や鼻や口を、胃袋や肺や膵臓と同じと考えようとしても、これはかなり困難である。
内臓がグロテスクというのも、ほぼ本能で決まっており、これも変更不能であろう。
おそらく顔というのは人間の存在イメージそのものなのである。
顔を否定するとなると、人間そのものを否定しないといけないという感じである。

顔というのも、この地球上の生命体の設計であろうし、他の星の生命に顔があるとは限らないわけである。
そもそも目と鼻と口という位置関係に必然性があるとは思われず、目と鼻の位置が逆でもいいであろう。
目が変な位置に付いているというのはグロテスクな表現の典型であるが、これもなかなか興味深い。
目と鼻と口がこの位置である必然性はなかっただろうし、もしくは口で食べるという行為自体に必然性があるわけでもなく、他のやり方もあるだろうから、この位置こそが美人であるという観念に絶対性はないはずなのだが、なぜわれわれは顔という概念を信じ込んでいて、目が変な位置に付いているとグロテスクに思えるのか、それは本能で決められている美的観念の設定だとしか言いようがない。







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