石ころがたまたまそういう軌道で転がっていくというのではなく、意志したから、そういう軌道なのだというのが人間存在である。
根源的に考えて意志というのは無いのかもしれないし、今からコンビニにジュースを買いに行くとして、それは肉体が喉の渇きで促しているのであろうし、行く行かないの判断は、ほとんどが肉体が決めているとしても、あくまで最終決断は精神によってなされている、と考えることになっている。
喉が渇いたからジュースを買いに行くのは、これは人間としての意志の問題なのである。
夜中にお腹が空いたからラーメンを食べるかそのまま我慢するかも人間の主体的な意志の問題なのである。

われわれ人間の人生は多々の強制イベントに直面させられており、言動は強いられているものである。
その強制イベントも、他者との意志との力学なのである。
召集令状が来て戦地に赴くとすれば、そうやって徴兵する権力者の意志なのである。

われわれは強制的に、もしくは半強制的に存在させられているので、まったくの白紙に対して意志しているのではなく、何かしらの状況において強制的な、もしくは半強制的な決断をさせられているのである。
不本意ということ自体が人間らしいと言える。
機械が何らかの作業をするとして、それを不本意に感じることはないわけである。

不本意ということがないとしたら、果たして個人が存在しているのか、とても疑わしい。
望んだことが何の抵抗もなく超伝導のようにすらすらと実現していくのであれば、そこに自分という主体は存在しづらいのである。
何かしら不本意であるからこそ、人間は存在しており、本来は別の在り方をしたかったという願望こそが自分なのである。
本当の自分というのは無いのだが、いろいろと不本意なことをやらされていると、どこかに本当の理想的な自分があるに違いないと考えるしかない。







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