他人の人生が羨ましいという人がいる。それは素朴な感情であり、多かれ少なかれそうではあるのだろうが、やはり有想論に囚われるからである。有想論、つまり、死んでからも自分の内面が永続するとなると、幸福な人間は幸福を延々と反復するわけである。不幸な人間は不幸な体験を死んでからも延々と反復するわけである。この有想論を信じていると、当然ながら他人が羨ましくて仕方が無くなる。道重さゆみちゃんとセックスする男がいるとすれば、死んでからもその快楽を永続的に反芻するのだし、やれなかった人間はその絶望を永続的に反芻するわけである。道重さゆみちゃんのまんこの中で射精できたのと出来ないのとでは、これは人生の体験として違いがありすぎて耐え切れないことである。わたしがこの絶望を克服できたのは、どう考えても死んだら死ぬのであろうし、誰も彼も消え去るという常識的な考えに辿り着いたからである。死んだら誰もが無になるという無想論に至れば、道重さゆみちゃんの中で射精しようがしまいが、同じなのである。快楽を手にしようがしまいが同じ事であり、あらゆる階級も格差もなくなる。無から有が生まれたことで絶望が版図を広げていくのだが、これまた無に戻ることですべてが救済される。自らの記憶をループさせて自分の同一性を確認することに馴染みすぎているため、何かしらこれが永続するのであろうと考えてしまうのだが、ごく普通に考えて、肉体が死んで脳が死んでチンコもまんこも火葬場で焼かれるのであるし、どれだけ生命が繁殖するとしても個々人は消え去る。記憶の反芻というのは、死後は決して続かない。続くはずがない。道重さゆみちゃんと褥を共にした男が何億年も何十億年もその至福を反芻し、われわれが何十億年も空閨を託って身もだえするということはあり得ない。自我の同一性という悪夢は必ず終わる。人生50年のかりそめの夢であり、その後は完全消滅である。有想論と無想論のどちらに理があるか、考えれば明らかである。死んでから何十億年も記憶を反芻して、自分の同一性を確認するとかわけがわからない。かつてはひとびとは怨霊を本気で畏れたし、天変地異は誰かの恨み辛みの現れだと考えていたが、さすがにそのような迷信からは脱却しつつある。死んだら無であり、記憶のループがそこで止まるという真実に到達すると、寝ても覚めても身を焦がすような感情さえ無意味に思えてくる。道重さゆみちゃんとセックスできてもできなくても同じである。どちらにせよ消去されるし、完全な無に至るのであるから、道重さゆみちゃんのまんこにチンコを入れる必要などない。そもそも太陽の寿命はあと60億年くらいしかないし、それよりも前に膨張し始めるから地球の生命体など全滅する。地球が出来てから46億年であり、生命が誕生してから40億年くらいと言われるが、要するに地球の生命体も後半生に入っており、馬齢を重ねて滅びるのも時間の問題なのである。たかが50年の人生の記憶を死んでからも永遠に何十億年、もしくはそれ以上も反芻するという根拠はまったくない。この読みさしの本に続きはない。これがさゆロスへのわたしの解答である。どれだけ道重さゆみちゃんがセックスしてもわたしは構わない。死んだら人間は確実に無になるので、決してそれ以降の記憶のループはないし、この同一性への信仰は虚妄だからである。道重さゆみちゃんとセックスできたとしても、その記憶はわたしが死んだ瞬間に完全に消えてわたしの同一性がなくなるのでまったく意味がない。この暗澹たるディストピアでしばらく悄然としていれば、この自分自身が消えて記憶のループも終わるので、どのような問題も何ら深刻ではないし、淅瀝たる憂鬱も驟雨でしか無くすぐにやむのだから、なんら痛痒を感じる必要はない。苦しみを体験して、なおかつそれがループするこの自我という地獄が永遠であるはずがない。







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