2015.06.26
時間と体感
おそらく時間は無くてもいいはずである。
そもそも、われわれは現在しか経験していない。
現在の連続を生きているのだから、過去も未来もなくていい。
時間は体感として捉えているものだから、十秒で十年を体験してもいいのである。
十年が経過するとしても、決して十年という時間が積み重なって目の前にあるわけではなく、次から次へと消えていくので、あくまで体感だし概念の問題である。
実際はわれわれの人生にとっては時間が重要であり、時計を見ながら生活しているから、時間の流れが体感に過ぎないという真理にはなかなか到達しない。
現在という瞬間のループ構造であるはずなのに、時間を確認し続けることで、時間が実在しているかのように錯覚する。
どうしても記憶の再生というのは止まらないらしく、われわれは現在という時間を生きながらも、過去の出来事を頻繁に思い返している。
これは書物を紐解いてようやく読めるのとは対極であり、思い返したくなくても強制的に浮かんでくるわけである。
現在が次から次へと抹消されて新しい現在が発生して行くのだから、直線を引いていくように時間が流れていくイメージは本当は正しくはないのだが、こうやって過去の記憶が頻繁に浮かんでくるとなると、どうしても過去-現在-未来と直線的に考えるしかないのである。
過去というものは、物理的に強制されていると言うしかないのである。
時間は次々と捨て去られて消去されていくのに過去の実在を信じているのは、物理的な現実が時間の因果関係(前後関係)によって成り立っているからである。
目の前にあるパソコンを粉々に破壊したら、その壊したという事実が物理的に確定するから、撤回不能な過去として認識される。
壊さなかったことにしようと元に戻すことは出来ない。
物理的に変化する状態が時間という概念に紐付けられていて、その前後関係は動かせない。
だから、実際は現在しかないのに、何となく素朴に過去というのがあると考えるのである。
そもそも、われわれは現在しか経験していない。
現在の連続を生きているのだから、過去も未来もなくていい。
時間は体感として捉えているものだから、十秒で十年を体験してもいいのである。
十年が経過するとしても、決して十年という時間が積み重なって目の前にあるわけではなく、次から次へと消えていくので、あくまで体感だし概念の問題である。
実際はわれわれの人生にとっては時間が重要であり、時計を見ながら生活しているから、時間の流れが体感に過ぎないという真理にはなかなか到達しない。
現在という瞬間のループ構造であるはずなのに、時間を確認し続けることで、時間が実在しているかのように錯覚する。
どうしても記憶の再生というのは止まらないらしく、われわれは現在という時間を生きながらも、過去の出来事を頻繁に思い返している。
これは書物を紐解いてようやく読めるのとは対極であり、思い返したくなくても強制的に浮かんでくるわけである。
現在が次から次へと抹消されて新しい現在が発生して行くのだから、直線を引いていくように時間が流れていくイメージは本当は正しくはないのだが、こうやって過去の記憶が頻繁に浮かんでくるとなると、どうしても過去-現在-未来と直線的に考えるしかないのである。
過去というものは、物理的に強制されていると言うしかないのである。
時間は次々と捨て去られて消去されていくのに過去の実在を信じているのは、物理的な現実が時間の因果関係(前後関係)によって成り立っているからである。
目の前にあるパソコンを粉々に破壊したら、その壊したという事実が物理的に確定するから、撤回不能な過去として認識される。
壊さなかったことにしようと元に戻すことは出来ない。
物理的に変化する状態が時間という概念に紐付けられていて、その前後関係は動かせない。
だから、実際は現在しかないのに、何となく素朴に過去というのがあると考えるのである。
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