統計的に調べたことはないが、夏は(古典的な)詩歌のテーマになりづらい。歌謡曲なら夏をテーマにした楽曲ばかりなのに、おそらくは夏という季節が描き出す肉体の輪郭のようなものが、かつての隠者文学としての詩歌には似つかわしくないのである。夏祭りを詩歌にすることは出来るであろうし、美人の浴衣姿を謳うことは簡単だが、しかし、自分が美人を同伴していることが前提となるであろう。他の男が連れている美人を歌にするのもなんか変である。花鳥風月として眺めるものではない。春や秋や冬なら、いろいろな光景を遠くから安楽椅子探偵のように眺めやることが可能なのに、夏だと自分自身が参加しなければならない。太陽は一年中照りつけているはずなのに、夏の日射しは肉体的な強制力を持つ。現代のミュージシャンはまさに夏のイベントに参加するタイプなのであろうし、だからこそ夏をテーマにした歌謡曲は多々あるのだが、古典的な歌人であればなかなかそこは琴線に触れないであろうし、歌人の貧相な肉体は夏という季節が持っているアウトドアな感覚にそぐわない。恋人がいない人間が恋人とのデートを空想して詩にするのは可能であろうし、現代の歌謡曲の作詞家であれば空想で書くのが普通であろうが、やはり古典的な詩歌だと空想の恋愛を詩にするのは躊躇われる。ダンテの神曲のように物語仕立てならいいが、たとえば道重さゆみちゃんとの新婚生活を空想して詩にするというのは、かなり抵抗があるわけである。三島由紀夫(1925-1970)は真夏の日射しを浴びる肉体を描き続けたが、言うまでもなくそこから疎外されている劣等感との戦いであり、決してナチュラルなものではない。夏という季節は人間と大自然が触れあうのではなく、肉体と肉体が触れあうのであり、あらゆるものがセックスの隠喩であるから、ここから詩想を得るのはなかなか難しい。普段であれば詩人が観想しているはずの世界が、あたかも復讐のように日射しを浴びせて歌人の肉体の輪郭を描き出してしまうから、ここでは言葉が挫折するし、若者や生命の勢いに呑まれ、割腹自殺に追い込まれる人もいるわけである。







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