2015.07.29
KOBAMETALとさくら学院
先日の彩未ちゃんのライブをさくら学院の子が見に来たというので、やや意外な気がしたのである。TOKYO IDOL FESTIVALにも、さくら学院と武藤彩未ちゃんが出るのだが、なにかしら武藤-水野寄りの人間の反動的な動きにも思える。国土を恢復しようというひとつのレコンキスタであり宗教戦争であろうが、さくら学院校長になったつもりのKOBAMETALからすれば、武藤-水野が何かをやるのは、コミンテルンの紅旗を掲げた極左冒険主義者が火炎瓶を投げているのと同等の破壊活動であろう。時間も空間もない無から有象が立ち現れ、それがまた無に帰る力学である。正統と異端が判然とせず、誰が容喙し僭称しているのかわからない力の世界。さくら学院はあくまで重音部(中元すず香)が支配しており、バトン部(武藤彩未)は磊落を極めている。彩未ちゃんがゆいもあと共演を希望しても断られていたわけである。現状のさくら学院はKOBAMETALの麾下にある。ゆいもあと彩未ちゃんの共演を拒否するのは、この地球上にKOBAMETALしかいない。重音部が成功案件でバトン部が失敗案件なので、重音部に優先権があるのは当然であるとはいえ、水野由結ちゃんに彩未ちゃんの宣伝すらさせないというのは解せない。渋谷公会堂の彩未ちゃんのライブにも中元は来なかったし、裏事情は察しが付く。ゆいもあは来たけれども、その画像などは禁止でありコメントも出されていない。つまり観客として見るのは勝手だが、宣伝は禁止ということだ。アミューズキッズの流れはあまりよくわからないのだが、おそらく武藤・水野・佐藤・飯田は幼少期からの関係であるはず。中元すず香は当時アミューズと提携していたアクターズスクール広島経由である。もあちゃんはちゃおガール経由で、今はこっちが主流ながらも、元々は傍流と思われる。もあちゃんが中元に対して過剰にフレンドリーに接していたのは、浮いていた中元への配慮もあるだろうし、また武藤-水野の派閥が強いので、そことは別のところで人間関係が生まれたと思われる。もあちゃんもいろいろと反省したのか、このところは武藤-水野に擦り寄っていて、中元から離反しているが、アミューズの決算資料では三吉・松井がさくら学院の代表という扱いであり、この不自然さはKOBAMETALの意向であろう。人気ファッションモデルである三吉・松井としてはさくら学院のイメージは付けたくないはずだが、KOBAMETALという暴君が中元の代わりに三吉・松井を立てたのである。さくら学院の顔と言えば、どう考えても水野由結ちゃんであるだろうに、KOBAMETAL+中元すず香としては武藤-水野グループは排除したいのであろうし、ついでにもあちゃんも巻き込まれて廃嫡の扱いである。水野由結ちゃんが表紙から消されたさくら学院は、日本から日本人がいなくなって朝鮮人しか住んでないような世界である。武藤-水野を分断するためにいろいろ工作しているのだろうが、中元と水野は一貫して仲がよくないし、三吉と松井も本人が嫌だと思うので、これはKOBAMETALの暴政に他ならない。さくら学院にこだわりのあるOBといえば、武藤-水野ともあちゃんであるが、ここは賊軍の扱いであり、あくまで中元が官軍なのである。中国皇帝は易姓革命により支配者が変わるから、乗っ取ればそれが正統なのだし、チンギス・ハーンがユーラシア大陸を蹂躙していた13世紀にはモンゴルが支配したわけである。フビライ・ハーンの元王朝は正統であるし、中国としてはこれが当然なのだ。力による皇位の簒奪は正義である。天皇制は万世一系であり世界最古の王朝であるが、武藤・水野・菊地を排除して新しいさくら学院の王朝を作るのは、いかにも日本人らしくないので、アミューズらしいと言える。深山幽谷の地でひとりのゾロアスターとして思想を深めているもあちゃんがいずれ人類愛を説くために世界史に現れる時をわれわれは待ちわびているのであり、現在の重苦しい沈黙は、来るべき最終大戦に向けて超人が羽化するための端境期であろうと考えるのだが、それは終の棲家で死を俟つだけの窮民が生み出した夢想かも知れず、KOBAMETAL+中元すず香が真っ黒に塗りつぶした大地が浄化され、金色燦爛たる煌めきを放つ瞬間が来るかどうかは杳として知れない。どれだけ生活の利便性が増そうとも人類はすでに頭打ちであり、BABYMETALというゴミユニットが変わり映えのしない舞台を延々とループさせているのは、歴史が終わった世界の勝利者そのものなのであろう。階級闘争の理論は破綻し人間の序列が固定された世情である。これまでわれわれが苦悶してきたのは死骸となるまでの断末魔であった。このあらゆる大衆運動が頓挫した末法の世で死に絶えるわれわれは、人類の限界を目の当たりにしながらも、屍山血河の戦場で天使を見るように、新たなる宇宙を生成するひとりの超越した個人を想見するのである。これを菊地最愛原理主義という。
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