色、音、熱、圧、空間、時間等々は、多岐多様な仕方で結合し合っており、様々な気分や感情や意志がそれに結びついている。
この綾織物から、相対的に固定的・恒常的なものが立ち現れてきて、記憶に刻まれ、言語で表現される。
相対的に恒常的なものとして、先ずは、空間的時間的に結合した色、音、圧、等々の複合体が現れる。
これらの複合体は比較的恒常的なためそれぞれ特別な名称を得る。
そして物体と呼ばれる。
が、このような複合体は決して絶対的に恒常的なのではない。

エルンスト・マッハはあの誰でも知っている音速の単位のマッハと同一人物だが、彼がヒュームに影響を受けて唱えた感覚一元論は、アインシュタインに影響を与えつつも、哲学の分野からは黙殺された。
感覚の要素で世界が構成されるというのは、それこそ誰でも思いつきそうな、あまりにも当然の考えである。
視覚や聴覚や嗅覚や味覚や触覚で世界が作られていると言われれば誰でもそりゃそうだと思うはずだ。

わたしが緑を感覚するのをやめたり、わたしが死んだりすると、諸要素はもはや従前通りの結合関係においては現れない。
それだけの話である。

光に色はないというのはニュートンがとっくの昔に言ってはいるが、まあそうである。
色は光の波長の問題だから、人間の視覚の問題である。

物体が感覚を産出するのではなく、感覚複合体が物体をかたちづくるのである。


マッハは数学や物理を濫用しないから、読解はさほど難しくはない。
だが本物の物理学者であるだけにところどころ理数系でないと歯が立たないところがあり、それが敬遠される原因でもあろう。

わたしの考えでは、心理学的事実は、物理学事実と少なくとも同程度に重要な認識源泉である。


デカルトに「情念論」という著作があり、いろんな感情の大半は動物精気によるものだと主張し、このわれわれの動物的な肉体で情念が発生しているのだと説いたが、デカルトの心理分析が拙いこともあり、あまり読まれていない。
デカルトは主観-客観を区分する張本人と扱われるが、「情念論」を読むと、それなりの悪戦苦闘はあったのである。
デカルト(1596-1650)は数学者としても高名であるし、自然科学の知識もあったが、ニュートン(1642-1727)より前の人間である。
デカルトもマッハと似たような問題意識はあったのだが、結論が真逆になるのは近代科学の知識の差であろう。

やはりエルンスト・マッハの方向で突き進めると、哲学と近代科学の融合となるから、理数系の知識が必須となってしまう。
数学や物理が出来るなら哲学をやる馬鹿はいないという問題もあり、ここが難儀である。
ソーカル事件でフランス現代思想の数学と物理がデタラメだと暴露されたことを思い合わせると、哲学者がマッハを黙殺したことは興味深い。
アインシュタインの相対性理論に影響を与えたことを考えると、物理学者が趣味として哲学をやるのが望ましいのだろう。







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