2015.08.25
大日如来と空間座標と認識の問題
認識というのは座標を前提としている。三次元空間が固定されており、その特定の座標から見える世界が認識である。東京から大阪に移動して大阪を見ることは出来るが、東京と大阪に同時に存在することは出来ない。自分が存在している座標しか認識出来ないので、それを越えるとなると伝聞や想像が頼りである。WEBカメラで世界のあちこちを同時に見るのも可能ではあるが、人間は一度に二冊の本を読むことさえ出来ないから、同時に認識できる分量にはかなり制限がある。認識を拡張しようというのは人間的な欲求であろう。そもそも動物は言葉を使えないから、伝聞というのがあり得ない。人間は五感に映じた世界だけでなく、それを越える宇宙まで把握しようとする。地球上では人間だけが出来ることである。空海は大日如来という法身をイメージし、森羅万象のすべてが曼荼羅として描かれている世界を想見したが、この悟りの境地が宇宙の真理と同一であるかはわからない。「空はすなわち仮有の根なり。仮有は有に非ざれど而も有有として森羅たり。絶空は空に非ざれども而も空空として不住なり」と空海は述べるが、まさに色即是空、空即是色であり、われわれは認識と対象の世界に存在しているが、これもよくわからないものである。この宇宙は本当は三次元ではないはずなので、観測してこそ世界は立ち現れるという気もするし、その特定の座標から展開される世界があるだけであり、そもそも森羅万象というのが迷妄かもしれないが、人間はイデアとか物自体とか無意識とか大日如来とか、その類の言葉で宇宙を表現せずにはいられない。種や仕掛けがわかってないからこそ人間は存在しているのであるし、この他者性がゆえに、自分がそう決めたからそうなっているというトートロジーから逃れている。問題作成者と回答者が別人であることが重要である。これが対象と認識の越えられない壁である。誰が美人に見えるかはわれわれが自分で設定してないからこそ相対化されない絶対的価値がある。認識と対象が分かれているのは、われわれが自分で自分を設計してないからである。ただ理由も分からず生きており認識している。その生きるという行為そのものが苦痛であるから、相対化することを虚しく繰り返し、宇宙について縷々と書き散らすしかないのである。
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