2015.09.21
作風の固定
才能があればどんな作品でも作れると思いがちであるが、実際は創作家の作風は固定されており、ひとつの作品しか作れないと言ってもいいわけである。ドストエフスキーでいえば、「カラマーゾフの兄弟」と「罪と罰」と「悪霊」と「白痴」は同じ作品だと言って差し支えあるまいし、やはり政治犯として捕まり、シベリアで四年間過ごして「死の家の記録」という獄中記を書き上げたことが、その作風を決定づけたのである。ドストエフスキーの作品には人間のすべてが書いてあると言うことも出来れば、ひとつのことしか書いてないということも出来る。おそらくひとりの創作家はひとつの断面しか示せないのである。ひとつの作風を終の棲家としなければならない。人生が一回であるなら作品も一回なのである。三島由紀夫のすべての作品は、彼のプライベートな性的疎外感を繰り返しているだけとも言えるし、その対象の煌びやかさに触れられないことがテーマなのである。森羅万象に触れることは出来ず、ある一点からすべてを想像しているのが人間であるし、この偏りが誰でもそうであるからこそ、表現には普遍性があるのである。これは人間にとっての普遍性であり、もし複数の人生を歩める生物がどこかにいるとしたら、また別の話であろう。人間の嗜好が固定化されており、その最たるものがセクシャリティーであるのだから、フロイトがすべてを性で説明するのは、それ自体はもっともな話なのである。おそらく性欲だけでなく名誉や優越感の問題も含めた方がいいであろうが、いずれにせよ、その類の人間的欲求は個人的に固定されている。われわれは固定された欲求と紐帯を結んで同一人物として存在し続けるのである。同一人物であるというのは趣味趣向があまり変わらないことであり、それなりに頭の固さが必要なのである。新作を創るつもりであっても、それはすでに諳んじていることの再生産である。別人になってはいけないというのが個人の限界であり、それは多大な矛盾を滞積させていくのだから、人間は死ななければならない。
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