2015.09.25
平清盛は英雄ではない
平氏が驕っていたということだが、平清盛がやったことで本当にひとびとを激怒させたのは福原遷都くらいであろう。この福原遷都にしても乱心というわけではなく、以仁王の乱(1180年)があり、これで源氏が立ち上がったため、清盛としてはめんどうなことになり始めていた。宗教権力も平氏の敵に回ったので、いろいろと大変であったから、京都から離れることを決意したのである。安徳天皇(平清盛の娘の息子)を京都に置いておくと危険というのが懸案事項であった。この当時は僧兵というのが仏罰の畏怖を背景に幅を利かせていたので、対立は避けたかった。結局は福原遷都が大不評であったため半年持たずに元に戻ることになり、平清盛は京都の宗教勢力を叩き潰すことにした。園城寺と興福寺を焼き払ったのである。これも後の織田信長などを見れば普通に思えるが、当時としては驕慢だったのかもしれない。どちらにせよ、こういう武家のやり方が後には普通になる。平清盛の台頭で摂関家は終わったし、武力による支配の先駆者と言えるのだが、摂関家が衰退したのは白河法皇の院政がきっかけであるし、平清盛が特に革命を起こしたわけではない。平清盛が台頭したのは白河法皇の御落胤だからとされており、この真偽は今日では確かめようがないにしても、どちらにせよ戦場で活躍して天下を取ったわけではない。めざましい出世をしただけである。戦国武将とは扱いが異なるのである。保元の乱や平治の乱で勝利者の側になったが、これは朝廷での権力闘争を鎮圧したという扱いであろうし、英雄とは違う。
平氏という悪を源氏という正義が倒したというわけではない。後白河法皇と平氏の対立関係ということに過ぎない。後白河法皇は中継ぎで天皇になっただけだが、66歳まで生きているから、何度失脚しても復権しただけである。平清盛が後白河法皇を幽閉して、年若い高倉上皇に院政を敷かせた段階で、本来なら政治生命は終わっているのである。この高倉上皇が20歳で夭折して後白河法皇が復権したのが、平氏の滅亡の大きな要因ではある。もしくは、院政を巡る権力闘争をずっとやっていただけであり、平氏はそこで勝利し、敗北もしたというだけである。都落ちの時に後白河法皇を連れて行こうとしたら逃げられたのが平氏滅亡の直接の原因である。
平清盛の存命中から源平の争いは始まっていたが、本格的になるのは平清盛が64歳で病死してからであるし、その死から四年後に、高倉上皇の息子である安徳天皇(平清盛の孫)は壇ノ浦に沈むことになるのである。源氏の軍勢の中心であった源義経の方がいいイメージで語られるのは、やはり平清盛がこの時点ですでに鬼籍に入っているからであろう。平清盛は敗軍の将としてもキャラクターが立っていない。平清盛は朝廷の実権を握っていた状態であったが、天下を取ったとは言えないし、自らの理念を実現したわけではない。国家を設計したという側面が薄いので、その意味でも英雄的な存在とは言えないのである。悪人とかそういうことではなく、英雄にはなれなかった、もしくはならなかったのである。
平氏という悪を源氏という正義が倒したというわけではない。後白河法皇と平氏の対立関係ということに過ぎない。後白河法皇は中継ぎで天皇になっただけだが、66歳まで生きているから、何度失脚しても復権しただけである。平清盛が後白河法皇を幽閉して、年若い高倉上皇に院政を敷かせた段階で、本来なら政治生命は終わっているのである。この高倉上皇が20歳で夭折して後白河法皇が復権したのが、平氏の滅亡の大きな要因ではある。もしくは、院政を巡る権力闘争をずっとやっていただけであり、平氏はそこで勝利し、敗北もしたというだけである。都落ちの時に後白河法皇を連れて行こうとしたら逃げられたのが平氏滅亡の直接の原因である。
平清盛の存命中から源平の争いは始まっていたが、本格的になるのは平清盛が64歳で病死してからであるし、その死から四年後に、高倉上皇の息子である安徳天皇(平清盛の孫)は壇ノ浦に沈むことになるのである。源氏の軍勢の中心であった源義経の方がいいイメージで語られるのは、やはり平清盛がこの時点ですでに鬼籍に入っているからであろう。平清盛は敗軍の将としてもキャラクターが立っていない。平清盛は朝廷の実権を握っていた状態であったが、天下を取ったとは言えないし、自らの理念を実現したわけではない。国家を設計したという側面が薄いので、その意味でも英雄的な存在とは言えないのである。悪人とかそういうことではなく、英雄にはなれなかった、もしくはならなかったのである。
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