自分の死を観測できないという問題だが、そもそも自分は生まれてないので生きているはずがない。虚無であるから、それが危殆に瀕することもない。われわれは他人として存在しているのである。コンビニの店員であるなら他人の前にコンビニ店員として存在している。かりそめの姿と言うかもしれないが、そのような役割を否定すると世界が否定されてしまう。事実存在としてコンビニ店員であるのは間違いない。それは究極の真理ではないが、そもそも真理は存在しない。この世界に実存している事実としてコンビニ店員なのである。彼が余暇に写真家の真似事をやっているとして、そっちの自分が本当の自分だと考えているとしても、第三者はその疎外された可能性にまで思いを馳せることはない。世間に提示している存在がすべてであり、われわれは他者でしかない。世界という市場の商品棚にこのペルソナを陳列するのである。自分というのはいわば実行しなかった作戦行動のようなものであり、頭の中で図上演習を繰り返したに過ぎないから、その死産に終わった想いが生きていたとは言い難い。他者の前では他者にしかなれないという嶮岨な境界を超えることは出来ない。肉体が呼吸を停止して、もはや骸しか示せないとしたら、それが死なのである。居並ぶ会葬者の涙に見守られることもなく、住所不定の天涯孤独の人間として樹海で壊死し骨になり土に還るなら、それは他者として死ぬことさえも出来なかったのである。どちらにせよ由緒正しい旧家でもなければ数百年前に死んだ自分の祖先のことなど知るまいし、家族の伝聞としてさえ語り継がれない。生き証人がいなくなれば他者としても消えてしまう。このようなことをわたしが縷々と述べているのも仏教やドイツ哲学の影響であり、アメリカ人はこんなことは考えない。多民族国家でルーツを持たない彼らは現実の価値を謳い上げる理念を説くしかあるまいが、いずれにせよ世を遁れて人生を虚仮と見なすことで耐えるのは人類普遍ではない。日本人の大半は法華経を紐解くことはないし、葬式仏教として形式的に菩提を弔うにとどまるが、それでもどこかしら無常観を共有しているのは、異教徒と関わる機会がとても少ないからである。あらゆる民族や宗教が交差する戦地にいたとすれば、甘えたことを言っている余裕はあるまい。







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