ADHDは頭の中が雑念で一杯である。思いつきだけで浮き草のように蹌踉する繰り返しである。余分なタスクを切って頭のリソースを空けることが出来ない。いわゆる暇人は雑念の固まりである。暇を持て余すというのも変な話であり、貴重な時間をなぜ持て余すのかということだが、要するに気が散っているのでくだらない「暇つぶし」しか出来ない状態である。ADHDは治らないとされているが、治したくないという腐った精神こそが瘴気を放つ病根である。雑念に身を委ねて浮ついているのが好きなのである。もちろんそれによって人生の不幸が増えるから、そのマイナス部分だけ都合良く消したいと願うのだろうが、たとえば空想癖をやめたいとは思わないわけだ。二次障害に苦しんでも、根っこを治そうとはしない。アルコール中毒で困っているという患者はアルコールが好きだから困っているわけである。一升瓶を手にしながら「酒をやめたい」と言っているのである。パチンコ中毒もパチンコが病的に好きだからそうなるのだ。ADHDとアルコールとパチンコは同列に並べて差し支えない。ADHDが馬鹿なことをやめようとしたら、禁断症状が起こるのである。ずっと濁り酒で蜷局を巻いてパチンコをやりながら空想を描きつつ堕落した生活をしたいのである。自閉症の原因を水銀の被害に求める仮説がある。古典的に科学者と言えば、数奇者だか風狂人とでも言うべきか、深刻な狂疾というべき連中だったのは、錬金術のため水銀を使っていたからだとされる。これはセルフコントロールが出来ない状態が似通っているだけであろう。水俣病と自閉は違うであろうし、水俣病が楽しいという患者は絶対にいない。水俣病患者は水銀に依存しているわけではない。ADHDはADHDを愉しんでいるのであり、あくまで二次的な結果に苦しんでいる。ADHDは授業中に歩き回ることが多いのだが、雑念で頭の中が一杯だから身体が動いてしまう。曹洞宗の道元禅師は身体を調えることで心も調えられると述べた。達磨大師も九年間に渡り壁に向かい座禅をした。悟りのためではなく、座禅そのものが身心脱落であり仏の姿であり、安楽の法門である。身体的な威儀作法がしっかりしていれば、心もそれに伴うと道元禅師は言う。道元禅師は座禅だけでなく日常生活の作法もかなり重視していた。身体の所作と心は同じだというのである。未来の利益のために現在を我慢するのが世法(世間の法)の一歩ではあるが、ただ目的もなく座るという無我の境地こそが真実の仏法である。暇人は「何もしない」ことが出来ないので、いわば挙動不審者であり、馬鹿なことを反復しているから、仏法が求める無我なる自己とは対極である。ADHDに座禅をさせた方がいいのか、というと何とも言えないし、菩提心の欠片もない人間もどきに仏の道は教えがたいだろう。発達障害の権威であるジョン・J・レイティは「脳を鍛えるには運動しかない」という本を書いている。運動すると脳内物質が分泌されるので、リタリンを飲むのと似たような効果がある。こちらの方が医学的には適切であろう。どちらにせよADHDは座るのが嫌だし運動も嫌だというボンクラだからどうにもならないし、頭の中が煩悩だらけで仏から遠い堕地獄にいるわけである。







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