2015.10.14

対概念と人間

これはまだわたしの中で輪郭すら成しておらず、書き損じをするために文机に向かう試みとして、盲いた人間が象を撫でようとするようなものである。われわれはどうしても対概念を使ってしまう。真理と誤謬。正義と悪。天国と地獄。生と死。裕福と貧乏。勝利と敗北。美と醜。主観と客観。喜びと悲しみ。愛情と憎しみ。これは三次元空間と違って絶対というわけではない。いろんな概念を列挙して使うのも理屈では可能である。マックス・ウェーバーの合法的支配、伝統的支配、カリスマ的支配のように三つの区分で考えるのは無理ではない。だが、どうしてもわれわれは対概念に馴染みすぎている。人間そのものが快楽-苦痛の原理で出来ている。快楽-苦痛があるから、つまりプラスとマイナスの感情があるから、成功-失敗があるのだ。対概念がどうしても心理的にしっくりとくる。いろんな事象を五種類くらいに区別するのは可能であろうし、そういうカテゴライズはいくらでもあるだろうが、やはり貴族-奴隷とか強者-弱者のような対概念の方がわかりやすい。おそらく快楽-苦痛を当て嵌めるから対概念になると思うので、音楽のジャンルのように並列させるのも可能ではあるだろう。ブルースもロックもジャズもクラッシックもいい、というように。だが、われわれの普段の会話の多くは成功-失敗についてであるし、それが人生そのものである。感情とは別個のプラモデルのような理屈を組み上げてみても、それで死相が浮かぶ土気色の顔に生気がよみがえるわけではない。手付かずの自然のような自分が概念に毒される前に存在しているはずがないので、わたしが対概念に支配されているというよりは、この対概念の力学が虚無の世界に人間というホログラムを作り出している。成功-失敗という価値判断を含まないで語るとなるとピンと来ない。虫歯がどれだけ痛んでもそれを幻想だと言い切れる人はいいが、快楽-苦痛があまりにも絶対的なので、そこにすべては紐付けられる。たとえばクレッチマーの体型論は人間を細長型、肥満型、闘士型に分けている。細長型と肥満型はもちろん、闘士型というのもよくいるわけだ。ゴブリンのような筋肉質で肩幅が広く、強そうに見えるのだが、さほど運動神経はよくなくて、身長は低めであるという類型は思い当たるであろう。だがこういうのは博物学として列挙しているのであるし、思考概念とはまた違うであろう。痩身-肥満という対概念に闘士型(筋肉質)というのを含めても、これは概念をみっつにしたというよりは、種類を仔細に分割してリスト化しているだけとも言える。たとえば花の色で植物を分類してリストにするのは、概念とはまた違う気がするのである。貴族と奴隷の間に平民を挟んだり、もしくはさらにカーストを細かくするとしても、やはり貴賎という概念が根っこにあるのである。あるいはコーカソイドとモンゴロイドとネグロイドに分けるとしても、根底には白人と有色人種という価値観があるのである。







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