2015.10.21
真面目な人間=怒りの固まり
ほんの半世紀ほど前までは真面目であるかどうかが人間を評価する最大のポイントだったのである。そこは父親という畏怖するべき帝王が睥睨する絶対的な世界であり、怒りによる規律が重んじられていた。その父親というシンボルは御陵威をたたえた現人神であり、この世界の根源たる規律を皇統として引き継ぐ法身であったが、同時に不倶戴天の敵でもあるアンヴィバレントな存在だったのである。このところ、そのわれわれに取り憑いていた父という観念が忽然と消え失せ、怒りのない人間の方がバランスが取れているという考えが一気に版図を広げた。社会がそれだけ抑圧的ではなくなったのである。実際、抑圧を緩めてもたいしたことはなかった。抑圧を緩めると人間が自由奔放になり快楽主義が猖獗を極め社会が混乱状態に陥るという予想は完全に外れていた。風紀の紊乱は元からの話であるからさして変わりはない。女は古来より春をひさいでいたし、父親もただの暴君であったし、自らを本当に律してなどいなかった。父という悪魔崇拝の終わりによって神経症は淫祠邪教のようにして淘汰されたのである。規律とは要するにノルマであり、それを果てしなく探求することは自我を蝕む。あらゆることがどうなろうがどちらでも構わないという境地に辿り着けば神経症は治る。抑圧とは家制度のためであるから、家父長制を放棄すれば抑圧の必要はない。これによって結婚するのがただのコストでしかないという状態になったが仕方があるまい。結局のところ、真面目さというのは人生の諸過程をノルマとして捉える考えである。ヒステリーの女性はその肢体を縛る義務感の強さに打ち震えて痙攣していたのだ。この義務への固執を支えるのは怒りであり、それが真面目さであった。発達障害と神経症は義務への固執という点ではさほど径庭がない。人生が選択の余地がないノルマとして与えられていた神経症の時代においては、発達障害も類友として温存されていたのである。言われたことだけやれという社会から、言われなくても気付けという社会に大きくシフトしたので、われわれの人生へのアティテュードは真逆になっており、これは歴史的にかなり大きな粛清なのであるが、刑場の露と消えて退場するのもままならず、敗死するべき人々が生かされている状態である。怒り狂う人間には神経症が似つかわしいが、怒らない人間には鬱病が似合う。メンタルを病むのも時代相の反映であるのが興味深い。
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