忘れると言っても、本当に記憶から失われたものもあれば、長らく反芻を忘れていた出来事もあるわけで、埃をかぶった書架から取り出すことが出来るなら記憶として残っているはずなのだが、反芻のリストから削除されたエピソードは「忘れていた」と表現される。人間は楽しいことがあってもすぐに飽きる。もしくは幸福な瞬間があったとしても、それは過ぎ去った夢のようであり、ほろ苦い感傷である。たとえば道重さゆみちゃんとセックスが出来たとか、まさに金色燦爛たる極楽浄土が顕現したというレベルの至福なら話は別だが、たいていの楽しいことは刹那的な感覚しかない。それに対して苦痛とはどれだけ繰り返しても摩耗することが無く、いつでも塗炭の苦しみを伴うのである。まるで楽しさなど人生の箸休めで、苦痛こそが人生の本質であるかのようだ。この苦痛について考えてみると、自分で転んだという類の痛みなら忘れるのである。なぜか屈辱という対人的な痛みに関しては忘れてはならないらしい。他人から与えられた疵など救済はされまいし、いわば不良債権であるが、これを手放すわけにはいかない。実際のところ、屈辱を味あわされた相手に屈託無く接するのも馬鹿すぎる。高度な戦法として、あえて過去の屈辱を忘れてその当該の相手に接するというのもあるだろうし、すっかり忘れてみせることで途惑った相手の罪悪感を引き出すことも不可能ではないだろうが、なかなかそういうことは出来ないし、またそれが倫理観に響く相手ばかりではない。ごく普通に考えて、屈辱の記憶は心に血文字で銘記せざるをえない。歴史書に記録されるわけではない塵芥のような挿話でも、個人的な恥辱としては人生の重大極まりない出来事として、根深い愁傷と憤怒を伴った内面の奥底で、非合法の地下出版のように再生産され続けるのであり、それは劣化を知らない複製なのである。何度でも何度でも、まさに目の前で起こった出来事同然に幻視するのである。煩瑣な俗事を弁護士に任せるのと同じ感覚で、仇敵が死後にどうなるか神様に対応を委ねてしまうのも思考法としてはあり得るだろうが、来世まで待てないのが人間であるし、宗教の熱心な信者ほどテロリズムに近いのである。李白が銀河の九天より落つると評した廬山の滝は今でも150メートルの高さから大瀑布として畏怖をたたえながら降り注いでいるのであるし、かつてパンゲア大陸から分裂してそれぞれの大陸が生成された頃まで遡ればまた別だが、人間的な尺度からすると、自然のエコシステムは変わり映えのしない円環構造である。われわれだけが直線的な一回性の時間の中で死という終決、つまり世界の終わりに向き合っている。ネガティブな記憶ほど反芻するのは人格障害者の狂疾ではなく、むしろこれこそが歴史の中に生きる人間の本質なのであるし、他者との因縁をスティグマとして背負い、宿怨を晴らすべく干戈を交えるか、もしくは奴隷となれということだろう。







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