ニーチェ「曙光」永上英廣訳
あとからの合理性----
永いこと存続しているすべての物は、
しだいに合理性が滲みこむので、
成立当時は不合理なものだったということが、
そのためありえぬことのように見える。
成立を扱ったほとんどすべての精確な歴史は、
感情的には、矛盾とも冒涜とも思われるのではないだろうか。
良き歴史家は、絶えず首をふっているのではないだろうか?

学者の偏見---
すべての時代の人々が何が善、何が悪、
何が褒めるべく、何が咎めるべきかわかっていると信じていたというのは、
学者の正しい判断である。
だが、いずれの時代よりも現代のわれわれがそれをよりよくわかっているように思うのは、
学者の偏見である。


道徳と愚鈍化---
社会的慣習は、古い人間たちが有利または有害と考えた、
その経験を表現する。
しかし慣習を支える感情はかの経験そのものに関係しないで、
慣習の古さ・神聖さ・確かさに関係する。
そのためにこの感情は人々が新しい経験を積み、
慣習を修正することに反対する。
つまり、道徳は新しい、より良い慣習の成立に反対する。
道徳は人を愚鈍にするものだ。


ニーチェの箴言を引用した上で、愚見を縷々と述べるのはあまり好きではないのだが、そういう牽強付会な読み方しか出来ないのもまた確かであるし、そもそもニーチェの箴言は閃きを呈示しているのであろうから、特定の思想文脈を指定しているとは限らない。さて、遠い昔の人が奇妙なことをやっているように見えるのは近代科学がないからであろうし、つまり医者も病院も薬もないような世界である。近代的な医療がないなら加持祈祷にすがり、死んだとなれば祟りを畏れ奉り立てるくらいしかあるまい。人間は思想的な課題として迷信を克服したのではなく、医学が発展しただけである。特効薬で快癒するならお祓いの必要もあるまいから、迷信を脱却するに決まっている。20世紀になって女性の解放が進んだのも、家電製品の普及と軌を一つにしているであろうし、人権どうこうというのは後付の説明とも言える。奴隷解放も召使いが不要になったからであり、人権思想は後付である。思想が発展しているように見えても、それは科学の発展で世の中が変わったから説明が変更され人間観が変わっただけである。







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